なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

黙想と祈りの夕べ通信(441)復刻版

 黙想と祈りの夕べ通信(441)復刻版を掲載します。2008年3月のものです。当時の山北

教団総会議長から私に対する教師退任勧告の再勧告が教団常議員会で決議された直後のものです。

日本基督教団という教会にとっての「生命線」について、当時の教団執行部(今も同じ)の理解と

私の理解の違いが記されています。


       黙想と祈りの夕べ通信(441[-23]2008・3・9発行)復刻版


 2月19日に行われた教団常議員会で私の教師退任再勧告が決議されました。この度もまともな議論

もなく多数決で決められてしまいました。その時に私が発言したことを要約して記しておきます。

私は山北議長への三つの質問と二つの意見表明をしました。三つの質問は以下の通りです。 ^

昨年秋の第35/20回教団総会以後の第一回常議員会(2006年12月開催)で、山北議長は私の常議員

資格を問うと言われたが、それが教師退任勧告になった理由は何か。◆〇核無陳垢繰り返し言わ

れている「正しい聖礼典の執行」とは何か。私は第35/20回教団総会での聖餐式は、沖縄教区との

関係の回復のないままで執行された聖餐式なので、陪餐には与かりませんでした。教団総会で行わ

れる聖餐式であるとすれば、教団との間に距離を置く沖縄教区との関係の修復をしてからすべきだ

と思っているからです。そうでなければ、コリント教会の富める信徒のように「ふさわしくないま

まで」パンを食し、ぶどう酒を飲むことになると考えるからです。 教団の信仰告白、教憲教規

の遵守において、聖書との関わりはどうなのか。「安息日は人のためにあるので、人が安息日のた

めにあるのではない」というイエスの言葉との関連でも、答えてもらいたいと言いました。この三

つの私の質問に対して山北議長はきちっとした回答を、私はしなかったと思っています。次に二つ

の意見を述べました。 〇笋寮算措阿量簑蠅僕蹐鵑清技嫗倏ご告については、宣教委員長の髙橋

潤さんも「教会の生命線」という言い方をされているし、このことでは賛否は別として大変多くの

教区、教会、信徒教職が関心を示しています。しかし、そのことに私は違和感があります。何故沖

縄教区との関係の修復や合同のとらえなおしの課題や同性愛者差別の問題にではなく、聖餐の問題

と絡んだ私の教師退任勧告にこれだけの関心が向けられるのかということです。前々から私が言っ

ていますように、聖書的にも宣教論的にも聖餐式についてはクローズもオープンも両方あり得るわ

けですから、オープン聖餐を執行している私に教師退任勧告を出すこと自体ナンセンスなことで、

むしろ教団という教会が真剣に考えなければならないのは、沖縄教区との関係の修復であり、合同

のとらえなおしと実質化の推進であり、同性愛者差別との取り組みにあるのです。これこそ、私は

教会の生命線などというのは好みませんが、敢えて教会の生命線というなら、教会の生命線では

ないでしょうか。◆‘鐱楷霪超誼弔箸いΧ飢颪鬚匹考えるかということで、以下のような意見

表明をしました。一個教会の営みはその教会の現場を踏まえて試行錯誤しているわけで、そこか

ら出て来た一個教会の決断と選択が、全体教会としての教団の枠組みを例え逸脱していくもので

あっても、教憲教規を狭く解釈してそれを違反であると切り捨てることが、教団という教会の豊さ

に繋がるのかということです。私には一つの集団とうものには巾があって、その集団に属する個々

の創造的で多様な活動の中でその集団の活性化が起こるように思えてなりません。山北さんの言う

教憲教規の使い方は、教団という教会の死滅に繋がるとしか思えないのです。その他に私は「再編

と一致協議会準備会」という案内が全国の教会に配布され、その中にある東神大教授の山口隆康さ

んの「日本基督教団紅葉坂教会における違法な聖礼典執行の問題」についてという論文(?)につ

いての感想を述べました。山口さんの論文の中には聖書もイエスも出て来ず、私の発言の違法性を

細々と書いているだけです。もし私が山口さんだったら、クローズの聖餐の真理性、その豊さと、

オープンとの違いを記し、それぞれ信じるところに従って聖餐式を執行していきましょうという筋

で書くだろうと申し上げました。

 再勧告については今のところ無視するつもりです。こちらの話を聞かないで、初めから私のよう

な教師を教団から追い出そうと決めて山北さんはやっているようですので、話になりません。今秋

の教団総会が山になるでしょう。山北さんは、何故私だけなのかと問うたとき、私と同じような教

師を次々に退任させるようなことを言っていましたので、今秋の教団総会で山北さんが支持される

ようですと、教団は本当に中世の教会のように異端審問が次々に行われるようになるかも知れませ

ん。私個人としてはそうならないように最善を尽くすつもりです。 



     「裁きからの自由、憐れみ深さへの自由」      3月9日


 他の人々について判断するのに多くのエネルギーを費やします。誰かが何かしたり一言いったりす

るたびに、その人について何か意見したくなるのが常です。私たちは、多くのことを見たり聞いたり、

知ったりします。心にあることをすべて整理し、判断しなければならないと思うと、全くうんざりし

ます。

 「人を裁くのは重い苦しみだ。一方、人に裁かれるのは軽い苦しみだ」と砂漠の教父たちは言いま

した。人を裁かねばという思いから一度離れると、限りない内的自由を経験することでしょう。一度

裁くことから自由になると、人に対して憐れみ深くなる自由を味わうでしょう。イエスの言葉を思い

起こしましょう。「人を裁くな。あなたがたも裁かれないようにするためである」(マタイ7:1)。


                 (ヘンリ・J・M・ナウエン『今日のパン、明日の糧』より)