なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

使徒言行録による説教(69)

     使徒言行録による説教(69)使徒言行録18章23-28節、
             
・今日はペンテコステの礼拝です。まず初めに、バルトの説教(説教集4、p.178-p.179)から、

私たちが聖霊を受けるということは、どういうことなのかについてお話ししたいと思います。バ

ルトは、「聖霊に至る道は単純に服従である」と言っています。<われわれは奇跡的に霊が吹い

てくるのをただ待っていてはならない。われわれは「あの神の生命はいつかわたしの中に発生し

て存在することになるだろう」などと考えてはならない。そんなことをしようとすれば、われわ

れは絶望と罪の中にひどく沈み込んでしまうであろう。否、「聖霊に至る道は単純に服従である」

と。そして更に続けて、<弟子たちは、イエスが彼等に示した新しい生命を、まず全く単純に真

剣に受けとめなければならなかった。この道の途上において彼等は霊を、生命を、勝利に満ちた

力を受けたのである。この道の途上において、彼等は本当にある日、五旬節に、それらが単純に

目の前にすでにあることがわかったのである。われわれにとっても、真剣にそれを受けとめる以

外に別に道はない。われわれは、「あなたは心を尽くしてあなたの神なる主を愛し、あなた自身

のようにあなたの隣人を愛せよ!」(マタイ22:37-40)というイエスの戒めを知っている。それ

以外の全てのことはわれわれに役に立たない。まずそれから始めるべきである。それはわれわれ

にはむずかしいであろう。そんなことは問題ではない。われわれはつまずくであろう。それも問

題ではない。「主イエスよ、わたしはあなたの戒めを守りたいのです!」という誠実な意志以外

の何も必要ではない。もしあなたの心の最も深いところからそのように呻くならば、その時あな

たは聖霊を受けるのである。否あなたはもうすでにそれを持っているのである。そして、あなた

がそのように呻き続ける限り、それはあなたのもとにいつまでも留まるのである>。そのように

バルトは語っています。このペンテコステ聖霊降臨日に当たり、まずバルトが言うところの

聖霊に至る道は単純な服従である」ということを、もう一度想い起したいと思います。

・さて、使徒言行録18章23節では、パウロが第三回の伝道旅行に出かけたということが記されて

います。<パウロはしばらくここ(シリヤのアンティオキア教会)で過ごした後、また旅に出て、

ガリラヤやフリギアの地方を次々に巡回して、すべての弟子たちを力づけた>というのです。パ

ウロは、彼の宣教の働きによって新しく生まれた諸教会を次々に巡回したのでしょう。それは

<すべての弟子たちを力づける>ためだったと、ルカは記しています。「力づける」と訳されて

いる言葉は、「堅固にする」という言葉です(田川)。私たちキリスト者も全く同じでありますが、

エスを信じる者は、それまでの自分が生きてきた土台から、新しい土台の上に自分の生き方を

据え直した者のことであります。「何よりもまず神の国と神の義を求めなさい」(マタイ6:33)

というイエスの教えに従って生きようとする者のことです。けれども、そのような信仰者である

私たちの生きている現実の世界は、神の国と神の義が実現している世界ではありません。むしろ

この世の流儀、人間の流儀がすべてにおいて優っているところであります。イエスの流儀、神の

流儀は殆ど顕在することなく、どこかに隠されてしまっているところであります。ですから、自

分自身の中に新しく据えられた信仰の土台であるイエスのことについて、イエスがめざされたこ

とについて、即ち、「何よりもまず神の国と神の義を求めなさい」という声を、繰り返しはっき

りと聞き続けていかなければ、いつでも信仰者と言えども、その人の中に据えられた新しい信仰

の土台に代わって、生まれながらに生きてきた古き人間のこの世の流儀である自己中心性や権力

や金力を第一にする住み慣れた家に帰ってしまうのです。<「主よ、わたしはあなたの戒めを守

りたいのです」という誠実な意志>も、いつしかなえてしまい、なるようにしかならないという

あきらめに陥っていくのです。

・おそらくパウロはそのような人間の現実をよく知っていたと思われます。ですから、教会を巡

回し、すべての弟子たちを、その信仰の土台にしっかりと足を据えて、信仰者としての生を貫い

ていくことができるようにと、「堅固にする」ために、第三回伝道旅行を敢行したに違いありま

せん。<聖霊に至る道は単純に服従の道である>が故に、その服従を堅固にする必要が、常に信

仰者には必要なのです。繰り返し、繰り返し聖書を読み、祈り、礼拝で神を賛美し、御言葉を聞

くということによって、わたしたちもイエスという新しい土台に自らの足を据えて、一人の信仰

者として、この世を生きていくことができるようにと願い、そのようにしているのではないで

しょうか。

・ある人が、現在の日本のような高度に産業が発達した先進国は、どんづまりの状態であり、そ

ういう状況で大切なのは、自分なりの構想力をもっていることだと言っています。たとえば、教

育者の場合、その人が文部科学省の大臣をやってくれといわれたら、その時に自分の構想力を展

開して日本の教育を変えていけるような、そういう構想力を現在のどんづまりの状況にあるこの

時に、一人でも数人でも学び合い、話し合って持っておくということが重要なことだと。このど

ん詰まりの社会は政治的社会的な運動で変わり得るものではない。構想力をもった人間が人口の

半分を越えれば、何もしなくても社会は変わる。要するに一人一人の人間が世間ずれしてこの世

の中をうまく生きようとだけ考えて生きているなら、どんなに逆立ちしても社会は変わらない。

一人一人が現実の社会を超える理想をもって生きていかなければ、どん詰まりの社会は変わらな

いというのです。私たちの中には自分の責任をとことん追及していくことよりも、社会に責任転

嫁してことを済ます傾向が強いように思いますが、自分のできることを生きている限り最後まで

追い求めていくことの大切さを教えられます。

・<何よりもまず神の国と神の義を求めなさい>というイエスの教えに従って生きる信仰者は、

ある意味で、このどんづまりの社会の中に新しい流れをもたらす存在と言えるのではないでしょ

うか。

・ローマ社会に広がっていった、イエスを信じる信徒の群れとしての最初期の教会は、ローマ社

会の中で異質な光を放ち、人々に新しい社会の息吹を感じさせたのではないでしょうか。ローマ

社会の秩序と法のもとにおける生活とは違って、教会の交わりがめざしたのは、最も小さなもの

をも生かす、一人ひとり孤独ではありますが、その孤独が癒される神の支配のもとにおける人間

の連帯ではなかったのではないでしょうか。<あなたがたは互いに愛し合いなさい>というイエ

スの戒めに従って、互いに愛し合い、仕え合っていく、自分を愛するように隣人を愛していく、

そのような人間の輪が教会だったのではないでしょうか。

使徒言行録2章の聖霊降臨によって誕生した教会の姿は、まさにそのような人間の輪が生まれた

ことを伝えています。<信者たちは皆一つになって、すべての物を共有にし、財産や持ち物を売

り、おのおの必要に応じて皆がそれぞれ分け合った>(。使徒2:44-45)と。

使徒言行録18章24節以下には、エフェソにおけるアポロと、アポロの宣教活動が記されています。

アポロは、最初期教会としては、使徒言行録には殆ど記されていませんエジプトのアレキサンドリ

アを中心とする教会に属する者だったようです。24節には、「さて、アレクサンドリア生まれのユ

ダヤ人で、聖書に詳しいアポロという雄弁家が、エフェソに来た」と記されています。アポロは、

「主の道を受け入れており、イエスのことについて熱心に語り、正確に教えていたが、ヨハネの洗

礼しか知らなかった」(25節)と言われます。「このアポロが会堂で大胆に教え始めた。これを聞

いたプリスキラとアキラは、彼を招いて、もっと正確に神の道を説明した」(26節)と言われます。

そしてアポロがアカイア州へ渡ることを望んでいたので、エフェソの教会の信徒たちはアポロを励

まして、アカイア州の教会の人たちに彼を歓迎してくれるように手紙を書きました。アポロはそこ

に着くと、既に恵みによって信じていた人々を大いに助けた(27節)というのです。アポロもまた、

パウロと同じように、既にイエスを信じていた人々の信仰を「堅固にする」ために仕える人であり

ました。

パウロの書いた手紙であるコリントの信徒への手紙一には、その冒頭に、パウロがコリントに発

生した分派争いに心を痛め、その調停に腐心した様子が語られています。<あなたがたはめいめい、

「わたしはパウロにつく」「わたしはアポロに」「わたしはケパに」「わたしはキリストに」など

と言い合っているとのことです」(1:12)と言われており、その後、「知恵」による福音宣教への批

判が縷々述べられています。その中には、「十字架の言葉は、滅んでいく者にとっては愚かなもの

ですが、わたしたち救われるものには神の力です」(1:18)という言葉もあります。おそらくこれ

は、アポロへの間接的な批判ではないかと思われます。そして3章4節以下に、<ある人が、「わた

しはパウロにつく」と言い、他の人が「わたしはアポロに」などと言っているとすれば、あなたが

たは、ただの人にすぎないではありませんか。アポロは何者か。また、パウロとは何者か。この二

人は、あなたがたを信仰に導くためにそれぞれ主がお与えになった分に応じて仕えた者です。わた

しは植え、アポロは水を注いだ。しかし、成長させてくださったのは神です。ですから、大切なの

は、植える者でも水を注ぐ者でもなく、成長させてくださる神です>と語っています。

パウロは、アポロの宣教には知恵が優っているという批判を持ちながらも、アポロの働きを認め

ていて、「わたしは植え、アポロは水を注いだ」と言っているのであります。私が住んでいます鶴

巻の近くには田んぼがあって、今稲の苗の植え付けが行われています。稲は苗の植え付けをした後、

水の管理が欠かせません。植え、水を注ぐ行為は、どちらも植物の成長には欠かせないことです。

その意味で、アポロも、既にイエスを信じている信徒たちが、その信仰に堅く立って生きていくた

めに、「堅固にする」働きを担っていたと言えるのでしょう。

・私たちは、今日の聖霊降臨日を覚えて、<聖霊に至る道は純粋に服従である>ということを改め

て確認すると共に、イエスに土台を据えて生きるということが、新しい社会の流れに連なることを

覚えて、イエスの流儀、神の流儀をこの世の流儀、人間の流儀によって埋没させないように、その

証言の生を全うしていきたいと願います。<「主イエスよ、わたしはあなたの戒めを守りたいので

す!」という誠実な意志以外の何も必要ではない。もしあなたの心の最も深いところからそのよう

に呻くならば、その時あなたは聖霊を受けるのである。否あなたはもうすでにそれを持っているの

である。そして、あなたがそのように呻き続ける限り、それはあなたのもとにいつまでも留まるの

である>。アーメン。