なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

マタイによる福音書による説教(17)

 クリスマスの集会を終えて、力が抜けた状態が続く中で、下記の2018年最後の日曜日の礼拝説教を、何

とか作りました。この原稿の実際の説教のはじめでは、そんな自分の状態を少しお話しましたが、下記の

説教原稿にはその部分はカットしています。しかも、日曜日の朝データ化された説教原稿をプリントアウ

トして、紙原稿を用意しようとしましたら、印刷機の紙詰まりで、この日は2回目になりますが、パソコ

ンを講壇に置いて、パソコン原稿で説教させてもらいました。前から申し上げていますが、このブログに

掲載するわたしの説教原稿は、全くそのまま日曜日の説教となるわけではありません。ほとんど原稿に従

いますが、その時によってはアドリブを加えて語る場合もあります。
 


   「迫害」マタイによる福音書5章10-12節 2018年12月30日(日)船越教会礼拝説教


・今日は、2018年の最後の日曜日です。この礼拝が2018年度の最後の礼拝です。


・マタイによる福音書5章10節から12節の、イエスの祝福の教えの最後のところからメッセージを聞きた

いと思います。


・ここに書かれているのは、「迫害」ということです。10節では、《義のために迫害される人々は、幸い

である》(10節)と言われています。この言葉を補足するかのように、11節では、《わたしのためにのの

しられ、迫害され、身に覚えのないことであらゆる悪口を浴びせられるとき、あなたがたは幸いである》

と言われています。≪わたしのために≫とは、この言葉はイエスご自身が語っているものですので、≪イ

エスのために≫ということです。


・≪義のために≫と言われていますが、義は社会的正義を意味しますが、元々は神と人間、人間と人間の

望ましい関係を意味する言葉です。本田神父は、ここでの「義」を「解放」と訳しています。本田神父の

この個所の訳を読んでみたいと思います。


・《解放をこころざして迫害される人たちは、神からの力がある。/天の国はその人たちのものである。

/わたしのことで、人々があなたがたを非難し、迫害し、偽りをもってあらゆる脅しをかけてくるとき、

あなたたちは神からの力をうけるのだ。喜びなさい、うれしく思いなさい。天には大きなむくいがある。

同じように、人々は、あなたたちよりまえの預言者たちを迫害したのである》。


・この本田訳で今日のマタイ福音書の箇所を読みますと、私には、今沖縄の辺野古新基地建設を阻止しよ

うとして活動している人々のことが想い起されます。沖縄戦で、戦争の悲惨さをとことん味わった沖縄の

人々が、基地がある以上、その基地から爆撃機が飛んで行って他の国の人々を殺す戦争に加担させられて

しまう。自分の住んでいる場所から人殺しの戦争が行われることを、何としても止めなければならない。

そのような想いで、辺野古に新基地はどうしてもつくらせてはならないと、自分の体を張って阻止行動を

しているのです。そのために辺野古に新基地建設を進めようとしている日本政府が送って来る機動隊や海

保の人たちから暴力を受けているのです。それでも非暴力抵抗を、私が知る限りでも、14,5年続けてい

るのです。


・先日エレミヤ書による説教を終えましたが、預言者エレミヤは40年以上、ユダの人々が神との契約に基

づいて、他者の命と生活を奪うことなく、互いに仕え合って、神の民にふさわしく生きるように、ユダの

人々に神の言葉である預言を語り続けました。そのために、エレミヤは苦難と迫害を、甘んじて受けてき

たのです。エレミヤにとっては、自分が苦難や迫害を受けたとしても、それ以上に、ユダの人々が神のも

とに互いに愛し合って生きることの方が喜びだったからに違いありません。


辺野古の新基地建設阻止のために闘っている人々の中にも、戦争よりも平和こそが大切であるという、

平和への喜びがあるに違いありません。辺野古のおばあ、おじいは、戦後の何もない時に、辺野古の海の

幸によって命を紡ぐことができたことを、よく語っていました。その命をもらった平和な辺野古の海に基

地など造らせてはならないという思いで、辺野古新基地建設に反対して立ち上がったのです。ですから、

自分が生きて行くためには、基地があっても仕方ないと、諦めてしまうことができないのです。辺野古

闘っている人たちは、口をそろえて、「諦めないことが勝つことだ」と言います。諦めてしまったら、新

基地建設という人殺しの行為を認めて、自分もそれに加担してしまうからという思いが強くあるからで

しょう。


・《解放をこころざして迫害される人たちは、神からの力がある。/天の国はその人たちのものである。

/わたしのことで、人々があなたがたを非難し、迫害し、偽りをもってあらゆる脅しをかけてくるとき、

あなたたちは神からの力をうけるのだ。喜びなさい、うれしく思いなさい。天には大きなむくいがある。

同じように、人々は、あなたたちよりまえの預言者たちを迫害したのである》。


・《解放をこころざして迫害されている人たち》、《わたし(イエス)のことで、人々があなたたちを非難

し、迫害し、偽りをもってあらゆる脅しをかけてくる》と言われているのは、マタイによる福音書では、

エスの弟子たち、すなわち私たちイエスを主と信じて生きるキリスト者を指して語られています。です

から、ある人は、この個所を真のクリスチャントはどういう人なのかが語られているところだと、言って

います。


・本田哲郎さんは、水によるバプテスマを受けた人がクリスチャンというよりは、人生において苦難のバ

プテスマを受けている日雇労働者や野宿を余儀なくされている人々を、信仰の先輩と呼んでいます。その

意味では、戦争という人殺しのための辺野古新基地建設を阻止するために闘って、苦しみ迫害されている

人々も、そのように匿名の信仰者と言えるのではないでしょうか。


・何れその個所も説教で触れることになりますが、マタイ福音書の6章25節以下には、「何を食べようか

何を飲もうかと、自分の命のことで思い悩むな」ということが書かれています。有名なイエスの言葉で

す。その個所で、このように言われています。《あなたがたの天の父は、これらのものがみなあなたがた

に必要なことをご存じである。何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのもの

は添えてあたえられる。だから、明日のことまで思い悩むな。明日のことは明日自身が思い悩む。その日

の苦労は、その日だけで十分である》(マタイ6:32-34)。


・生活のためには基地があっても仕方ないと、考える人もいます。正直な思いを吐露していると思われま

す。誰も生活が成り立たなければ、生きていくことができないわけですから、きれいごとなど言っていら

れないと。しかし、神さまはそういう私たちを、イエスさまをわたしたちと同じ人間として送って下さっ

て、「まず、神の国と神の義を求め」る人につくりかえてくださっているのではないでしょうか。自分中

心の人間を他者中心の人間に。神のことを思い隣人のことを思う人間に、です。


・人は根本的には神のためでも人のためでもなく、自分のために生きています。自分が中心です。その他

者である隣人をも自分の為に道具のように利用してはばからない自己中心性を、聖書は私たちの罪と言っ

ているのです。しかし、そのような私たち自己中心的な罪人のために、主イエスは十字架にかかってご自

分の命をささげてくださいました。それによって、私たちは罪とその永遠の滅びから解放されているので

す。信仰者はこのことを忘れることは出来ません。ですから、私たちが自己中心性である罪から解放され

て生きることが許されていることを、いつも感謝しているのです。従って、もはやかつてのように全くの

自己中心に生きることはできません。


・ローマの信徒への手紙14章7節以下で、パウロはこのように語っています。≪わたしたちの中には、だ

れ一人自分のために生きる人はなく、だれ一人自分のために死ぬ人はいません。わたしたちは、生きると

すれば主のために生き、死ぬとすれば主のために死ぬのです。従って、生きるにしても、死ぬにしても、

わたしたちは主のものなのです≫。


・他者から迫害を受けるということは、いじめを受けることですから、通常は決して幸いなことではあり

ません。子供たちがいじめを受けて、自死するという悲しい事件が起こりますが、そのことを考えても、

いじめを認めることはできません。迫害も認めることはできませんが、《義のために》《イエスのため

に》、つまりイエスを主と信じて生きようとするとき、結果的に他者からの迫害に直面せざるを得ないと

いうことを、この聖書の言葉は言おうとしているのではないかと思います。


・しかし、イエスは《わたしのためにののしられ、迫害され、身に覚えのないことであらゆる悪口を浴び

せられるとき、あなたがたは幸いである。喜びなさい。大いに喜びなさい》とおっしゃっているのです。

「大いに喜ぶ」は、「大いに」と「飛び上がる」という言葉の合成語です。「喜びなさい。飛び上がって

踊るほどに喜びなさい」という意味です。


・苦難や迫害は辛くていやなものです。できれば避けたいと思うのが自然です。しかし、自分さえよけれ

ばという悪魔的な自己中心性が支配しているこの世では、イエスに従って他者と共に生きようとする者

は、何らかの苦難や迫害を背負わざるを得ません。しかし、その苦難や迫害は過ぎゆく一時的なものに過

ぎないということも、また事実です。諦めないで、義と平和と喜びが支配する神の国(ロマ14:17)を信

じて、その到来に希望を持ち続ける者こそ、イエスの弟子ではないでしょうか。イエス・キリストにあっ

ては、どんないやなことも無意味なものも一つもありません。迫害さえも、私たちが本当は何者で、何に

属し、どこに向かって歩んでいるかを教え、確認させ、保証するものに他なりません。ですから、イエス

は言われます。「喜びなさい。大いに喜びなさい。」このことを改めて覚え、共に励まし合い、また十字

架で命を献げ、復活し、霊において今も私たちと共に歩み給う主イエスに信頼して、来るべき新しい年も

歩んでいきたいと思います。