なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

黙想と祈りの夕べ通信(420)復刻版

 黙想と祈りの夕べ通信(420)復刻版を掲載します。2007年10月のものです。


          想と祈りの夕べ通信(420[-02]2007・10・14発行)復刻版

 「ひきこもり」について積極的な発言を続けています精神科医斎藤環の本を二冊読んでみました。この人

については、以前現代社会の問題について哲学者や社会学者や精神科医の対談をまとめた本を読んで知りまし

た。問題を捉えるその視点に共感するものがあり、今回この人の本を読んでみました。不登校、ひきこもり、

ニート、ストレスで会社を休まざるを得ない人たちの問題を心の問題に還元する傾向が私たちの社会には強く

あります。そこから心理療法士やカウンセラーをめざす若者も多いそうです。人の心を癒す仕事としてやりが

いがあるということもあるでしょうし、今の社会が求めている仕事で、食いぱぐれないということもあるのか

も知れません。いずれにしろ書店に行っても、心理学関係の本が溢れています。しばらく前は社会学、今は心

理学がこの社会の脚光を浴びていると言われます。ここにはある種のイデオロギーが感じられます。何でも心

の問題にしておけば、政治の問題、経済の問題、教育の問題から人の心をそらすことができるからです。環境

と人間は密接な関係にあり、誰もが生き易い環境社会であれば、不登校もひきこもりも、現在のように問題に

なることはないでしょう。もちろん環境がいくら良くても、すべての人が生き易い環境を作ることは至難の業

ですから、心を含めて人間の側の問題も考えなければなりません。ただ現在の心理学ブームには、何でも心の

問題にしておけば、矛先が自分の方に来ないで済むという悪魔の囁きが聞こえて来ます。問題の根を見失うこ

となく、すべての人が生き易い社会(神の国?)をめざして賢く生きていきたいと思います。

 上記の私の発言に続いて、一人の方からの発言がありました。その方が属している朗読の会の発表会のこと、

ゴスペルのことなどを話されました。

 続いて別の方からの発言がありました。今相撲協会のことでいろいろニュースになってているが、その中で

あるコメンテイターの発言に危険を感じた。訓練、かわいがりの名の下に相当ひどいことが行われているので

はないかという問いに対して、その相撲界で経験があるコメンテイターは、そのかわいがりが相当ひどいもの

であっても、そこを通ってデビューできた人にはいじめとは感じられない。いじめと感じる人は、デビューで

きず相撲界を去ったひとであると。今の子どもたちは体力が落ちている。それは畳の生活や家父長的な家での

生活も知らず、耐える力が足りない。昔の生活に戻った方がよい。その責任は国にあるかのように、その人は

言っていた。確かに昔の方が体力が育てられただろうが、もっと体力をつけて、強い子どもを育てなければと

いう主張が、子どもたちの教科に柔道必須ということになっているのではないか。柔道が必須になれば、みん

なが柔道着を用意しなければならない。柔道着屋が喜ぶだけだ。私はそういう復古思想は危険だと思っている。

むしろ、昔を懐かしむならば、いろいろな昔の日本の歌や音楽を通して日本の良さを取り戻すということであ

れば、分かるように思える。確かに体力があり、耐える力は必要であるが、命を大切にするという発言がない。

マスコミで報道すると、そうだと思う人も多いので、影響が心配だ。強くなければいけないのか。弱い者も強

い者も共に生きられる社会でありたい。相撲―国技―国の責任という発想にはついていけない。極端に言えば、

戦前の教育に戻るのではないか。イエスの生き様に照らして、危険を見抜く目をもっていかなければと思わさ

れた。 


            「奴隷状態から呼び出される」     10月14日


 教会は神の民です。「教会」にあたるラテン語“エク

レシア”は、ギリシャ語の“エク”(~から、~の)と

“カレオ”(呼ぶ)からきています。奴隷状態から自由

へ、罪から救いへ、失望から希望へ、闇から光へ、死

を中心とした存在から生に集中した存在へと呼び出さ

れた神の民、それが教会です。

 教会について考える時、私たちは共に旅を続ける

人々の集団を考えます。あらゆる年齢、人種、社会か

らなる女、男、子どもたちを私たちの視座におき、そ

れらの人々が永遠の住処に向かって、長く面倒の多い

旅を続けながら、互いに支え合っているであろうこと

を思い巡らすことが大切です。
 

              (ヘンリ・J・M・ナウエン『今日のパン、明日の糧』より)