なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

黙想と祈りの夕べ通信(421)復刻版

 黙想と祈りの夕べ通信(421)復刻版を掲載します。2007年10月のものです。


        黙想と祈りの夕べ通信(421[-03]2007・10・21発行)復刻版


 最近テレビをみていて、集団によるリンチとしか言えないような暴力によって人が殺されるという問題を

感じました。二つの事件からです。一つは相撲の時津風部屋で起きた17歳の少年が死に至るしごきを受けて

亡くなったという事件です。もう一つは長野県の小諸にある宗教教団で行われたリンチ殺人事件です。こち

らの場合には20人ほどの女性がリンチに加わっていたというのです。なぜこのような悲惨な事件が起きてし

まうのでしょうか。全く私たちとは関係の無い特別な事件だと思われるかもしれませんが、決してそうでは

ないと思います。案外私たちとも深く関わる問題がこの種の事件には内包されているように思えてなりませ

ん。それはどういうことがと言いますと、集団がもつ関係性の問題です。私たちはたった一人で単独者とし

て生き抜くなどということは、およそ不可能なことです。家族をはじめとしてさまざまな集団に所属するこ

とでしょう。その際その集団がどのような関係性を持っているかということが問題になります。家族の場合

でも、非常に結束が強い家族の中で一人自分だけが異質な存在だったとしましょう。そのような人にとって

家族は、ともしますと抑圧的な存在に感じられるのではないでしょうか。私たちの教会では日曜学校で「バ

ラバラのいっしょ」とか「みんなちがって、みんないい」(金子みすず)というコピーを大切にしてきまし

た。この二つのコピーが指し示している個と共同性との関係は、個を生かす共同性と言えるのではないで

しょうか。私は共同性の本質的な意味はそのようなところにあると考えています。けれども実際は、家族と

いう共同性を含めて、共同性が個に対して抑圧的である場合が多いのです。その際たる例が時津風部屋であ

り、小諸の宗教教団であるのではないでしょうか。私はその集団の共同性が個を抑圧していないかどうかが

気になります。人間が単独者としては生きられないことを思いますと、解放的な共同性を願ってやみません。

 上記の私の発言に続いて、一人の方の発言がありました。今日も国会前の座り込みに行って来た。座り込

んでいる人は、数人であるが、その内の殆どは教団の信徒か牧師である。いつも座り込みに来ている人の中

では一人だけ教会との関わりを持たない人がいる。今日は北村牧師の教師退任勧告に関する署名用紙持って

いって、座り込みに来ている人にも署名してもらった。すると、教会に関わっていない方が、私は署名でき

ないのかと言われた。そこにいた牧師であるKさんが、私がその人をここで牧会しているから、私の教会の教

会員としておくから、署名してちょうだいと言われた。そう言われてその人はうれしそうだった。座り込み

のときに、教会に関わっている私たちが、教団の話やそれぞれの教会の話をついついしてしまうのだが、そ

ういう時は、その人が話の中に入れずに寂しそうにしているので、私たちはできるだけ気をつけるようにし

ている。今日のことは、未受洗者に開かれた聖餐か受洗者に限られて聖餐かという問題にも繋がるように思

えた。署名のことだが、私だったら、彼女にこれは教会関係の署名なのでと言って、署名してもらわなかっ

たかもしれない。K牧師の見事な応答には感心した。ある人は、自分が教会にこの署名用紙をもっていったら、

その日の礼拝説教で牧師がこの問題について語られたので、みんなが署名をしてくれたという人がいて、励

まされて帰ってきた。    


             「教会、神の民」     10月21日


 イエスが数多い人々の中の一人であったように、教会もまた多くの組織の中の一つです。ちょうどイエス

よりももっと魅力的な人々がいたに違いないのと同じように、教会よりもはるかにすぐれた方法で運営され

ている組織もたくさんあるに違いありません。けれども、イエスは神の愛を示すために私たちの間に姿を現

されたキリストであり、教会は、そのキリストがこの世界で目に見えるようになるために呼び集められた人

々、イエスの民です。

 はるか昔にイエスに会っていたとしたら、私たちはイエスをキリストと認めていたでしょうか。私たちは

今日、キリストの体である教会にイエスを認めることが出来るでしょうか。私たちには、信じることにおい

て飛躍することが求められています。もし私たちが思い切ってこの信仰の内に飛躍するなら、私たちの目は

開かれ、神の栄光を目の当たりにすることでしょう。


                  (ヘンリ・J・M・ナウエン『今日のパン、明日の糧』より)