なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

黙想と祈りの夕べ通信(422)復刻版

 黙想と祈りの夕べ通信(422)復刻版を掲載します。2007年10月のものです。私の教師退任勧告

が常議員会で出てきた頃のものです。この頃紅葉坂教会の役員が何人も常議員会に陪席しましたが、当時の

常議員会の論議が通常の会議とは余にも異質に感じたようで、躓いた人もいました。



       黙想と祈りの夕べ通信(422[-04]2007・10・28発行)復刻版


 10月24日の黙想と祈りの夕べは、10月23日に召されましたNさんの前夜式があり、休会にしました。23日の

朝私は高田馬場にあるホテルサンルートの部屋にいました。そこに連れ合いからNさんの召天の連絡があり、

すぐに駆けつけなければならないところでしたが、常議員会の2日目の朝で、午前9時30分から常議員会では

私の「教師退任勧告を行う件」が議事としてかけられることになっていましたので、午前中の議事を終えて

から帰ることにさせてもらいました。

 私の「北村慈郎教師の教師退任勧告を行う件」は、常議員会の最初の議事日程のときに議事取り下げの要

求が出たにも拘らず、議長は数名に発言させただけで、すぐ採決し議事として取り上げられることになりま

した。その間数分でした。当紅葉坂教会の役員、信徒の方が10名ぐらい常議員会に要求陪席して出席してい

ましたが、一切の発言も出来ないまま、その日は議事日程が承認されてしまいましたし、私の議事は2日目

朝一番になっていましたので、帰って行かれました。そのような議事日程における執行部の姿勢を見て、執

行部は私の勧告議案を決議して可決するつもりであることが私には分かりました。案の定2日目の9時35分頃

から私の勧告議案の審議がはじまりました。昨日常議員会に見えた紅葉坂教会の役員、信徒の方がこの日も

来てくれました。議長の提案理由の説明は、この議案に対して6教区常置委員会と1教区議長、そして当紅葉

坂教会役員会、そして何人かの個人からの質問、抗議、取下げ要求と2百数十教会の2100名を越える取下げ要

求の署名を一切無視して、自らこの議案の提案者であることの正当性を主張するだけでした。そして議案提

案者の議長に代わってこの議事の審議の議長をした小林真副議長は、手を挙げた常議員に一通り発言させ、

その後フロアーから当教会の秦克彦さんを含めて4名ぐらいの人から発言させて、それぞれの発言の中にあっ

た議案に対する問いや疑義や抗議に一切答えず、抗議の声の中で議案の採決を強行し、出席者29名中16名賛

成で可決してしまいました。

 このことについて何れ私の態度表明をしたいと思いますが、この通信では常議員会の報告だけを簡単にし

ておくだけにします。

 午前中の常議員会が終わり、お昼の休憩になって、私はすでにNさんの遺体が安置されている教会に帰ろう

と思い、教会に電話しました。Kさんに繋がり、今から帰ると申し上げたところ、すでに葬儀の日程等の打ち

合わせは出来ているので、常議員会を最後まで出てきてくださいというので、私は、午後の常議員会では私

が提案者になって出している議案がありましたので、そうさせてもらいました。私が提案者になっている議

案は、本年は戦責告白公表40年に当るので、教団が戦責告白40年を記念する集会をするという内容のもので

した。神奈川教区常置委員会が提案した議案ですが、常置委員会には常議員会の議案提案権がないというの

で、常議員であれば議案提案権がありますので、私の名で出したのです。常議員会の最後にこの議案が審議

されましたが、賛成12名少数で否決されてしまいました。

 教条主義者である山北議長はじめ現在の教団の執行部と多数の常議員は、議論を通してお互いに変わり合

い、より良いものを求めてゆく忍耐強い対話の関係に自分をかけようとはせず、批判的な発言には一切耳を

傾けず、ひたすら自らの正当性を主張し、自分たちと異なる立場や考えの人を排除しようとします。そうい

う常議員会ですから、2日間にわたる常議員会が終わると、虚しさによってどっと疲れがでます。でも、立場

を鮮明にして常議員である以上言い続けなければならないと、私は思っています。  



         「霊的指導者」             10月28日

 
 キリストの体である教会にはいろいろな顔があります。祈り、礼拝をささげる教会、教えと癒しの言葉を

語る教会。私たちを罪から清め、主の食卓へ招き、愛の契約によって一つに結び、宣教の働きへ送り出す教

会。私たちが病気にかかった時や死に臨む時、油を塗り、支えてくれる教会。生きる意味を探し求め、絶え

ず支えを必要とする私たちの道連れとなってくれる教会。このような顔のどれも、私たちが指導者として仰

ぐ人々からは見えて来ないかもしれません。けれども、イエスは私たちの教会の中で、教会を通して、私た

ちのところへ来られると心から信じて生きているなら、思いもかけないところや場面で、教会のいろいろな

顔や働きを目の当たりにすることでしょう。

 心まらイエスを愛しているなら、イエスは私たちが一番必要としているものを与えてくれる人々を送って

くださるでしょう。それが、私たちの霊的な指導者にほかなりません。


                 (ヘンリ・J・M・ナウエン『今日のパン、明日の糧』より)