なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

使徒言行録による説教(65)

        使徒言行録による説教(65)使徒言行録17:22-31

・聖書では、人間が考え出した神々は偶像と呼ばれています。旧約聖書で偶像という言葉は15種もあり、そ

の中で最も一般的な言葉は、エリーリームで「無きもの」を意味し、侮蔑的に使用されています。たとえば

詩編97編7節には、「すべて、偶像に仕える者、/むなしい神々を誇りとする者は恥を受ける」と言われて

います。偶像を頼りにする者は恥を受けるということは、偶像を頼ることによってその人は、ある意味で破

滅的な状態に陥らざるを得ないということを意味していると言ってよいでしょう。

アテネの町には、神話的な神々が氾濫していました。「古代ギリシャにおいては、神と言えばギリ

シャ神話の神々のことでした。最高神ゼウス、海の神ポセイドン、結婚と出産の女神ヘラ、大地と豊穣の女

デメテル、炉の女神ヘスティア、知恵の女神アテナ、恋愛と美の女神アフロディア、詩と音楽の神アポロ

ン、狩猟の女神アルテミス、戦いの神アレス、火と鍛冶の神ヘファイストス、牧畜の神ヘルメスという十二

の神々がオリュンポス十二神として崇められ、その他にもさまざまな神々が信仰されていました。それらの

神話の神々は、神殿はもちろん、家々や街角に金銀や石で造られた像としてまつられていました」(三好明)。

中には「知られざる神に」という祭壇さえあったというのです(23節)。

・前回の時にも触れましたが、そのようにアテネの町の至る所に偶像があるのを見て、パウロは憤慨しまし

た(16節)。なぜパウロは憤慨したのでしょうか。もちろん生けるただひとりの神、その独り子イエスを与

え給うほどに世を愛し給う神を、様々な偶像を信じることによって、アテネの人々がないがしろにしている

ことへの怒りを、パウロが露わにしたからだと言えるかもしれません。しかし同時に、パウロは、様々なむ

なしい偶像を信じることによって人間として結局は破滅に向かって歩んでいるアテネの人々を、放置してお

くことができなかったからではないでしょうか。福音宣教の業は、宗教としてのキリスト教の拡大というよ

りは、人々に人間として生きるための真の命は何かを示し、その真の命によって共に歩みたいという切なる

願いでもあるのではないでしょか。

パウロは、偶像崇拝の持っている非人間性、その破滅性に直接触れずに、まず様々な偶像崇拝に心奪われ

ているアテネの人々に対して、「アテネの方々。あらゆる点についてあなた方がいかに宗教心に富んでおい

でか、私は存じております」と語りかけます。そして、「ここまで道を通って来る途中、あなた方の聖所を

いろいろ見てまいりましたが、一つの祭壇に、知られざる神に、と碑文が彫ってあるのを見つけました。あ

なたがたが知らぬがままに拝んでいるものを、私がお教え申し上げましょう」(22,23節、田川訳)と切り

出します。

・けれども、ここでパウロが語っているような「知らざる(知られない)神に」という単数形の碑文はまだ

発見されておらず、古代の文献にもないと言われています。ですから、パウロアテネの町で目にしたのは、

「知られない神々に」という複数形であったと考えられます。多神教の世界では、この方がむしろ自然でし

ょう。しかしパウロはこれを単数形に改めることによって、唯一の真なる神に結びつけようとしているので

す(高橋三郎)。そしてあなた方は知らずに拝んでいるが、その神を自分は宣べ伝えているのだと語ること

によって、アテネの人々が信じている神とは異なった神を伝えようとしているのではないという含みを込め

ているのです。相手に自分が語ることを何としてでも聞いてもらおうという巧みな話術ですが、知恵を絞っ

て語りかけているパウロの熱意が伝わってきます。

・そしてパウロは、神の像を作るように人間が神を作ったのではなく、人間とこの世界を創造されたのは神

であることを明らかにしていきます。「この神は天地の主ですから、手で造った神殿などにはお住みになり

ません。また、何か足りないことでもあるかのように、人の手によって仕えてもらう必要もありません。す

べての人の命と息と、その他すべてのものを与えてくださるのは、この神だからです」(24,25節)と。人

間も自然も神によって造られたものであるというのです。人間と自然の被造性が語られているのです。

・そして更に、「神は、一人の人からすべての民族を造りだして、地上の至るところに住まわせ、季節を定

め、彼らの居住地の境界をおきめになりました」とパウロは語っているのです。人間と自然を神はお造りに

なっただけでなく、諸民族も、一人の原人アダムからお造りになり、その故にどの民族が優れていてどの民

族が劣っているということもなく、諸民族は対等であり、兄弟姉妹であり、また、彼らの居住地の境界を神

がお定めになったというのです。「季節を定め」とも言われていますから、四季の移り変わり、時間も神が

お造りになったものだというのでしょう。

・自然や歴史から、私たちが探し求めさえすれば神を見出すことができるように、神がすべてをお造りにな

っているのだというのです。ですから、「実際、神はわたしたち一人一人から遠く離れてはおられません」

と言って、パウロは、ギリシャの詩人エピメニデスの言葉とされている「我らは神の中に生き、動き、存在

する」と、同じギリシャの詩人アラートゥスの言葉「我らもその子孫である」を引用しているのです。そし

て「わたしたちは神の子孫なのですから、神である方を、人間の技や考えで造った金、銀、石などの像と同

じものと考えてはなりません」と、パウロアテネの人々の偶像崇拝を批判しているのです。偶像崇拝は全

てのものの創造者である神を否定することだと、パウロは言うのです。

・野口体操の理論をつくった野口三千三(のぐちみちぞう)さんという人がいます。もうお亡くなりになっ

ている方ですが、野口体操の実践は後継者の方が現在でも継承しています。野口三千三さんは、演劇家の竹

内敏晴さんとも近い人だと思いますが、この人に『原初生命体としての人間』という本が岩波現代文庫から

出ています。その本の「はじがきに」こういう言葉があります。「自然保護ということがしきりに言われて

いるこの頃であるが、自分という『自然の分身』は、いったいどうなっているのであろうか。からだの中の

自然を歪ませていることはないであろうか。自分の外側にばかり目を奪われて、人間が、造物主であるかの

ように思い上がり傲慢にふるまっていることはないであろうか。/人間の創造は、もともと自然の範囲内で

行われるべき、ささやかなつつましやかなものではないのだろうか。たとえそれが、ささなかなつつましや

まなものであったとしても、そのものやことと、大事に大事に触れ合い融け合うことによって、無限の豊か

さと新鮮さを生み出す能力があたえられているのではないだろうか」と言っています。

・この野口三千三さんの言っていることは、言い換えれば、人間である私たちが神によって造られた被造物

であるのに、そういう被造物であるという限界を超えて、いつの間にか自分が創造者である神のようにおご

り高ぶっているのではないか、ということではないでしょうか。そうではなく、被造物としての人間として

の豊かさを取り戻すことが大事ではないかと言っているように思います。同じ「はしがき」の最後に、「自

分の中にある大自然から分け与えられた自然の力により、自分の中にある、大自然から分け与えられた自然

の材料によって、自分という自然の中に、自然としての新しい自分を創造する、そのような営みを体操と呼

ぶ」と結んでいます。

・このような体操を提唱するようになった野口美千代さんには、現代社会に対する批判が根底にあるように

思われます。その思いを野口さんはこのように言っています。「今や、論理・科学という名の巨大な怪物が、

分析・数値化という方法によって、いつもまるごと全体であるべき自然の生きものを、くいあらしていくの

ではないか。そのような気がして、私は強い疑惑と恐怖を感ずるのである。原初生命体の発想は、生きもの

としての私の、防衛・抵抗反応であろう」と。

・この野口三千三さんの現代文明に対する「強い疑惑と恐怖」は、福島東電第一原発の事故によって現実の

ものとなってしまったのではないでしょうか。この原子力発電は現代の最大の偶像の一つと言ってよいでし

ょう。大澤真幸(おおさわまさち)は、岩波新書の『夢よりも深い覚醒へ~3・11以後の哲学~』の中で、

原子力という神」という項目を立てて、このように記しています。「端的に言えば、20世紀中盤の無意識

の社会心理の中で、原子力は神であった。原子力は、幸福や繁栄の全般をやがてもたらすはずの救世主と感

じられていた。あるいは、こんなふうに言ってもよいかもしれない。原子力は、もうすぐ近くまでやってき

神の国~つまり究極のユートピア~へ入るための鍵であった、と」。その偶像のとりこになって、結局は

破局的な滅亡という終末に突き進んでいく、そのような人間の驕りの持つ恐怖を、私たちは現在この日本の

中で味わっているのではないでしょうか。

田川建三さんは、今日の使徒言行録17章28節の「我らもその(神の)子孫である」というところを、「我

々は神の一族であるのだから」と訳した上で、29節をこのように訳しています。「神の一族であるとすれば、

我々は、金や銀や石(の像)に、つまり人間の技術や理念の(作り出した)形に、神たるものが似ているな

どと考えてはいけないのです」と。

原子力が、経済が、情報化社会が、或は軍事力が、国家や民族が神たるものに似ている等と考えてはいけ

ないのです。自らの「技術や理念」(田川)、「論理と科学」(野口)を絶対化して、それを神のごとく崇

める偶像崇拝によって、私たち自身の命と生活だけでなく、私たちの生活の基盤として与えられています自

然世界が蝕まれていき、その先には破滅しかないことを見極めていかなければなりません。

・その上で私たちがなすべきことは、パウロが言うところの「我らは神の中に生き、動き、存在する」とい

う私たち自身の立ち位置を確認し、神が私たちの中に実現しようとしておられる義と平和と喜びの満ち溢れ

神の国の一住民として、この時代と社会の中でいかに生きていくべきかを探求していくことではないでし

ょうか。その際、「人間の創造は、もともと自然の範囲内で行われるべき、ささやかなつつましやかなもの

ではないのだろうか。たとえそれが、ささなかなつつましやまなものであったとしても、そのものやことと、

大事に大事に触れ合い融け合うことによって、無限の豊かさと新鮮さを生み出す能力があたえられているの

ではないだろうか」という野口三千三さんの言葉も参考になると思います。もちろん人間の論理や科学をす

べてを捨て去ることはできませんし、その必要もありません。人間の論理や科学を神として私たちが奴隷に

なることが偶像崇拝なのですから、私たちが「神の中に生き、動き、存在する」者として、また神の一族と

しての己の立ち位置を見失うことなく、人間の論理や科学をも用いて、他者である自然や隣人を損なうこと

なく、平和な世界を求めて生きていくことではないでしょうか。