なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

使徒言行録による説教(67)

       使徒言行録による説教(67)  使徒言行録18章1-11節
            
・先日私の裁判支援会から派遣されて兵庫教区の総会に行ってきました。兵庫教区総会で私の裁判

支援をアッピールするためです。その兵庫教区総会が行われたところが神戸栄光教会でした。神戸

栄光教会は阪神・淡路大震災で倒壊しました。1997年の夏だったと思いますが、私が当時紅葉坂

会の牧師として、紅葉坂教会としてどこに支援の献金を送ったらよいのか、現地を見て決めること

になり、震災後の神戸に行ったことがあります。その時、震災時兵庫教区議長だったK牧師に、震

災にあった神戸の教会をいろいろと案内していただきました。神戸栄光教会にも連れて行っていい

ただきました。当時神戸栄光教会は倒壊した古い建物は撤去されて、その場所にプレハブのドーム

ができていて、そこで礼拝が行われていました。私が行ったときは、ちょうど真夏でしたので、そ

のドームの教会は冷房しても、なかなかきかず、蒸し暑い中で礼拝しているということでした。神

戸栄光教会に伺ったのはそれ以来でしたので、新しくできた赤レンガの外壁の大きな建物ははじめ

てでした。周囲の大きなビルや建物の中にあって、見劣りがしない立派な教会堂でした。プレハブ

の時の印象と余にも違っていて、びっくりしました。大変な費用がかかったことが想像されます。

・その神戸栄光教会を見ていますと、これは明らかにキリスト教ローマ帝国の国教となり、ヨー

ロッパの町の中心に建てられた、聳え立つ尖塔のある教会に近いものに思われます。そういう教会

堂を中心としたキリスト教というものは、やはり使徒言行録に記されているような最初期の教会の

歴史とは、随分様相が違うように思われます。パウロの宣教によって建てられた教会は、信徒の集

まりであって、集会場所はほとんど信徒の中の誰かの家であったと考えられます。いわゆる家の教

会です。一つの教会のメンバーが、それほど多くはなかったでしょうし、集まっている信徒には、

大きな建物を建てる財力もなかったでしょから、人数が多くなれば、いくつかの家の教会に分散

していったと考えられます。

アテネからコリントにやってきたパウロは、これまでのように、すぐユダヤ教の会堂に行って、

福音宣教をはじめたとは記されていません。コリントの町には、ローマ皇帝クラウディオスによる

ローマからのユダヤ人退去の命令によって、ローマから逃げてきて、コリントの町に住み着いてい

たと思われるアキラというユダヤ人とその妻プリスキラという夫婦がいました。パウロがコリント

に来た時、この二人と出会い、「パウロはこの二人を訪ね、職業が同じであったので、彼らの家に

住み込んで、一緒に仕事をした。その職業はテント造りであった」(2,3節)と記されています。

パウロは、普段はテント造りの仕事をして働いて、安息日になるとユダヤ教の会堂で論じ、ユダヤ

人やギリシャ人を説得した(4節)というのです。

アテネでは、パウロは単独で行動しなければなりませんでした。しかし、コリントでは、同労者

であるシラスやテモテではなく、その時は全く見ず知らずのアキラとプリスキラの夫婦と出会い、

一緒に仕事と生活を共にするという機会に恵まれました。パウロは、自分がテント造りによって自

分の生活を賄っていることを、後に彼の書いた手紙の中で、誇りとしていると言っています。これ

ユダヤ教の伝統的な考え方であって、律法を教えるのにその報酬を受け取ってはならないという

定めがあって、ユダヤ教の律法学者らは手に職を持っていて、生活は自分で賄っていたと言われて

います。けれども、キリスト教会では、御言葉を語る伝道者が報酬を与えられるのは当然であると

いう考え方をしていたと思われます。しかし、これは原則的に、どちらが正しいという問題ではあ

りません。状況によっては、どちらであっても構わないということでしょう。ただ「御言葉を語

る」という福音宣教が疎かにならないことです。

・その後しばらくして、シラスとテモテが、おそらくフィリピの教会からの献金なのか、資金を携

えてコリントにやってきたので、パウロは生活のために働く必要がなくなり、御言葉を語ることに

専心することができたというのです。パウロは、「ユダヤ人に対してメシアはイエスであると力強

く証しし」(5節)ました。この「メシアはイエスである」という宣教がパウロの中心的なメッセー

ジでした。

・人生を自己実現の場としてしか考えない人々にとって、メシアの到来などということは問題外で

しょう。それは私たちの場合も同じです。自分の生の充実、豊かさ、幸福と満足を求めることを人

生の目標としている人は、その実現による自己満足に生きるか、逆に自分の希望がかなえられない

で、人生を呪い、なぜ自分は生まれてきたのかと嘆き、自暴自棄に陥るかでしょう。けれども、ユ

ダヤ人はメシアを待望していました。ユダヤ人は、自らを神に選ばれた神の民と信じていましたか

ら、その神の民である自分たちがこの世界で苦難を強いられていることを、神の試練として受け止

め、神によるメシアの到来を待ち望んでいました。メシアが来れば、自分たちをこの世界の苦難か

ら解放してくれると信じていたからです。

パウロは、そのメシアがイエスであると語ったのです。ユダヤ人が待望しているメシアがイエス

なのだと。しかし、ユダヤ人はイエスがメシアだとは信じられませんでした。メシアが十字架にか

けられて殺されてしまうなどということは考えられなかったからです。ローマ皇帝のような権力者

を倒し、政治的な解放をもたらすメシアを期待していたからです。イエスがメシアだというパウロ

の宣教を聞いて、「彼らが反抗し、口汚くののしったので、パウロは服の塵を振り払って」、次の

ように言ったというのです。「あなたたちの血は、あなたたちの頭に降りかかれ、わたしには責任

がない。今後、わたしは異邦人の方へ行く」(6節)と。「メシアがイエスだということを否定す

るなら、あなたがたがどうなろうと、わたしには責任がない」と言ってパウロは、自分が遣わされ

ているのはユダヤ人のためではなく、異邦人のためだということを悟ったのです。

・そこで、パウロユダヤ教の会堂を去り、「神をあがめるティティオ・ユストという人の家に移

」(7節)ります。その家はユダヤ教の会堂の隣にありました。おそらくそこでパウロの宣教活動

が行われたのでしょう。するとパウロを追い出したユダヤ教の会堂長(会堂司)であるクリスポが、

一家をあげて信仰に入り、また、コリントの多くの人々もパウロの言葉を聞いて信じ、洗礼を受け

たというのです(8節)。

アテネと違って、コリントではパウロの宣教に対する果実が与えられました。パウロの語る言葉

を聞き信じて、洗礼を受けた人が多く出たというのです。コリントは、歴史のある文化都市アテネ

と違って、かつてあったコリントの町は一度滅んでしまい、ローマ皇帝ユリウス・カイザルによっ

て紀元前44年に植民都市として新しく再建された町でした。パウロがコリントに行った頃には、ア

カイヤ州一番の大きな都市に成長していましたが、虚栄の町、「淫蕩な町」として悪名をとどろか

せていました。アフロディテ神殿の神殿娼婦だけでも1,000名を越えていたと言われています。二

つの港をもち、立地条件から商業も盛んで、活気に満ちていた町でした。そのコリントの町でのパ

ウロの宣教活動を、使徒言行録の著者ルカは描きながら、「福音の宣教はエルサレムから、ユダヤ

サマリアの全土、さらに地の果てまで、なされ続けていく、その伝道はまことに不思議な仕方で

展開していく。ルカは先行したもう神のみわざに目を見張りながらそのことを明らかに辿っている

のです。

・それは、この箇所にルカが、パウロがある夜に主の幻を見て、主から言われた言葉を挿入してい

ることからも言えるでしょう。パウロが、幻の中で主から聞いた言葉は、「恐れるな。語り続けよ。

黙っているな。わたしがあなたと共にいる。だから、あなたを襲って危害を加える者はない。この

町にはわたしの民が大勢いる」(10節)でした。

・このパウロが幻の中で聞いた主の言葉には、「神の宣教」(ミッシオ・デイ)という現代の宣教

論が強調するところの考え方の萌芽がすでにあると言えるのではないでしょうか。宣教は神のみわ

ざであり、宣教に携わる者は、先行する神の御業に参与するに過ぎないのです。パウロは、その先

行する神の御業への信頼の中で、「一年六か月の間ここに(コリント)にとどまって人々に神の言

葉を教えた」(11節)と言われています。この新共同訳で「とどまって」と訳されているギリシャ

語は、「すわる」とか「腰を下ろす」という言葉で、11節は「彼は一年六ケ月の間腰を落ち着けて、

彼らのところで神の言葉を教えた」(田川訳)という訳のほうがよいと思います。パウロは、コリ

ントの町で腰を落ち着けて、神の言葉を教えた(この「教えた」は「福音を宣べ伝える」と同じ意

味)のです。

・今日の週報に紹介しましたバルトの降誕節(クリスマス)の説教で、「クリスマスの使信におけ

る本質的なものとは、人間にとってたくさんの古い宗教に、もう一つの新しい宗教(であるキリス

ト教)が付け加えられたということではない」。「イエスによって、わたしたちが生きるようにな

るため」だと言われています。つまり、イエスの使信が語られるということは、わたしたちの最も

内なる生の中への神の力強い介入であり、神の愛はわたしたちに示されるだけでなく、それはわた

したちの内に働くのだと言われています。

・腰を落ち着けて、コリントで神の言葉を宣べ伝えたパウロも、その宣教活動によって彼がめざし

たことは、ただ単にコリントに教会ができるということではなかったと思います。イエスを信じて

生きる人の集まりが生まれて、「生きているのは私ではなく、キリストがわたしの内に生きている」

のだという人が、一人でも増えることだったのではないでしょうか。イエスに倣って、神の真実、

愛、平和によって生きる人が生まれて、コリントの町に神の支配としての神の国のともしびがかか

げられることではなかったでしょうか。ユダヤ教に代わる新しい宗教としてのキリスト教が広がる

ということではなかったと思います。

・事実、後にパウロは、自分が設立したコリントの教会が、分派の問題や、偶像にささげられた肉

を食べてよいかどうかという問題で、或は、聖餐式を含んだ愛餐としての主の食卓で、富める人が

貧しい人を差し置いて、飲み食いしていることで、また、死人の甦りのことで、揺れ動いているの

を知って、新約聖書にはコリント第一、第二の二つの手紙ですが、実際には4つの手紙を書いたと

言われています。そのことは、パウロがコリントの教会の信徒たちに願ったことが、イエスの福音

によってどう生きるかということだったということを、明らかに示しています。

・私たちは、まずなによりも、パウロに幻の中で語られた主の言葉を想い起したいと思います。

「恐れるな。語り続けよ。黙っているな。わたしがあなたと共にいる。だから、あなたを襲って

危害を加える者はない。この町にはわたしの民が大勢いる」(10節)。この「恐れるな。語り続

けよ。わたしはあなたと共にいる」とパウロに語られた言葉は、私たちに向けられたものとして

読んでみますと、「恐れるな。福音を信じて生きよ。その証言の生活を中断してはならない。わ

たしはあなたと共にいる」というように、読み替えることができるでしょう。また、「あなたが

たを襲って危害を加える者はない。この町にはわたしの民が大勢いる」は、「イエスの福音の証

言者としてのあなたがたを否定することができる者はいない。むしろ、神は、この町に多くのイ

エスの福音に連なる者を備えている。それ故、大胆に語り、大胆に福音によって生き」と。