なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

使徒言行録による説教(68)

      使徒言行録による説教(68)使徒言行録18:12-22、
              
・昨日東日本大震災救援対策本部の派遣委員による報告会で、東北教区議長のKさんは、2011年3月

11日は聖書的には特別な日でカイロスであり、この東日本大震災が何を私たちに語りかけているの

かを、しっかりと聞いていかなければならない、という趣旨の発言をされました。カイロスとは、

チャンスや好機を意味する言葉ですが、聖書ではこの言葉によって、私たちの時間に神が介入する

ことを意味する神の時を言い表していると言われています。

・Kさんは、2011年3月11日の東日本大震災東京電力福島第一原子力発電所事故という未曽有の出

来事の中で、神が私たちに何を問うているのか、そのことを問題にしているのだと思います。その

ような意味で、確かに2011年3月11日という日は、歴史の中で忘れられない日となったと言うこと

ができるでしょう。

・歴史的な日と言えば、今日の使徒言行録でも、18章12節に、「ガリオがアカイア州の地方総督で

あった時のことである」と記されています。実は、この一行は、パウロらの活動した時代を歴史的

に特定する重要な証拠とされているところであります。この「地方総督」と新共同訳聖書で訳され

ている言葉は、プロコンスルギリシャ語訳で、「プロコンスルは、属州の長官。ローマの元老院

の代表たるコンスル(執政官)を務めたことのある人物であるから、皇帝に次ぐ権力者群の一人で

ある」(田川健三)と言われます。そしてアカイアのようなローマ帝国の属州の地方長官の任期は

1年とされていましたので、「ガリオがアカヤの属州長官であった時」が何時であったのかという

ことが明らかになるのです。そこで、発見された古代の碑文を突き合せていくと、ガリオのアカヤ

の属州長官としての在任期間は、紀元後51年5月から52年4月までということになります。その結果、

パウロのコリント滞在は49/50年~51/52年ということになります。

・紀元後の50年前後の時代に、すでにパウロが2回の伝道旅行を行い、小アジアマケドニアやア

カイアのローマの属州の主な町に、イエスを信じる信徒の群れを生み出していたというのでありま

す。イエスの十字架死を遂げたのが紀元後30年前後と思われますので、イエスの死後20年くらいで、

使徒言行録で描かれている初代教会の歴史が形成されていたということになります。そして高々20

年の間に、ユダヤ教の中から新しく生まれたイエスを信じる信仰者の群れとしての教会が、ユダヤ

キリスト者を中心とするエルサレム教会とは別に、非ユダヤキリスト者を中心とする教会が、

シリヤのアンティオキアを中心に、パウロらの伝道活動によってローマ帝国の属州の諸都市に広が

っていったのです。パウロの伝道は、ローマ帝国の属州の諸都市に既にあったユダヤ教の会堂を拠

点に、メシアはイエスであるという福音宣教によって、ユダヤ人やギリシャ人をキリスト者にして、

そこに信徒の群れとしての教会を生み出していきました。ですから、ユダヤ教を信奉するユダヤ人には

パウロは律法をないがしろにするけしからん人物ということになりますので、パウロはしばしば

ユダヤ人からの圧迫、迫害を受けたのであります。

・今日の使徒言行録の箇所にも、「ユダヤ人たちが一団となったパウロを襲い」(12節)と記され

ています。このコリントでは、パウロに逆らって立ったユダヤ人たちは、パウロを「法廷に引き立

てて行って」(田川訳「裁き台のところに引っ張って行き」)(12節)、「『この男は、律法に違反

するようなしかたで神をあがめるようにと、人々を唆しております』と言った」(13節)というの

です。それに対して、パウロが話し始めようとしたとき、アカイア州の地方長官のガリオはユダヤ

人に向かって、「ユダヤ人諸君、これが不正な行為とか悪質な犯罪とかであるならば、当然諸君の

訴えを受理するが、問題が教えとか名称とか諸君の律法に関するものならば、自分たちで解決する

がよい。わたしは、そんなことの審判者になるつもりはない」(14,15節)と言って、彼らを法廷

(裁き台)から追い払ったというのです。すると、「皆が会堂司のソーステネースをつかまえ、裁

き台の前で打ち叩いた」(田川訳)が、「ガリオはそれには全く心を留めなかった」と記されていま

す。

・コリントでこのようなユダヤ人からの圧迫を受けてからも、パウロはなおしばらくコリントに滞

在してから、その後コリントの信徒たちに別れを告げて、船でシリア州に旅立ったと言われていま

す(18節)。そのパウロの旅には、コリントで出会ったプリスキラとアキラ夫妻も同行したと言い

ます。おそらくテモテもシラスもパウロに同行したのでしょう。パウロはエペソで一度船を降り、

エペソにプリスキラとアキラ夫妻を残して、おそらくテモテも、もうしばらくエペソに滞在するよ

うにという人々の願いを断って、「神の御心ならば、また戻って来ます」と言って別れを告げて、

エペソから船出してカイザリアに到着しました(21,22節)。パウロは、カイザリアからエルサレ

ム教会を訪れ、それからシリアのアンティオキア教会に行き、しばらくアンティオキア教会にいた

と考えられます。それからパウロは第三回の伝道旅行に、またアンティオキア教会から出かけてい

くことになるのです(23節)。

使徒言行録の著者ルカは、コリントからエペソを経由して、エルサレムに行ったパウロについて、

ただその旅の経過を報告するだけで、何のためにパウロエルサレム教会に行ったのかということ

については、一切何も語っていません。ただ18節に「パウロ誓願を立てていたので、で髪を切っ

た」と、ルカは、ある面では唐突に記しています。この点に触れて田川健三さんはこのように言っ

ています。「著者(ルカ)はいかにも思わせぶりに、この件をひとこと言及しただけで、何の説明

も加えていない。何のために願をかけたのかさえも記していない。それくらいなら何も言わずにだ

まっていればいいのに。・・・この沈黙はおそらく意図的だろう。パウロには何か心に期するもの

があった。そのことはルカとしては言っておきたい。しかしそれを明からさまに言うと角がたつ。

それで一言ほのめかしたのであろう。とすれば、この時すでにパウロは、エルサレムに出かけてい

くのに、かなり衝突を覚悟していた、ということか(ローマ15:31参照)。(ローマの信徒への手紙

15章31節に「わたしがユダヤにいる不信の者たちから守られ、エルサレムに対するわたしの奉仕が

聖なる者たちに歓迎されるように」とあります)。ルカとしては、パウロエルサレム教会が明ら

さまに対立しているというのは言いたくないし、かと言って、パウロ伝を書くのに、それをまった

く黙殺するわけにもいかないし・・・」と。つまり、この使徒言行録が記していますパウロのエル

サレム行きには、既にエルサレム教会との対立関係にあったパウロとしては並々ならぬ覚悟があっ

たということです。

・ではなぜパウロを、そのようなエルサレム教会をわざわざ訪ねて行こうとしたのでしょうか。こ

の時のエルサレム教会訪問には、パウロ献金を携えて行ったということはなにも記されていません。

第三回伝道旅行では、パウロの設立した諸教会からエルサレム教会への献金を携えて、最後のエル

サレム教会を訪問します。そこでユダヤ人らによる迫害が厳しくなって、パウロローマ市民権を

行使して皇帝に上訴し、ローマ兵の監視のもとにローマに護送されていくようになります。けれど

も、第二回伝道旅行の締めくくりにエルサレムを訪問した、この使徒言行録の記事では、エルサレ

ムで何があったのかも、一切記されていません。ただ「教会に挨拶をするためにエルサレムに上り」

(22節)だけしか記されていません。

・これは想像にすぎませんが、パウロエルサレムの教会に行ったのは、その一つの理由として、

その時恐らくシラスをパウロは同伴していたと思われますが、エルサレムの教会がパウロの同労者

としてシラスを遣わせてくれたことに対して、感謝の気持ちを伝えたかったからではないでしょう

か。それに、非ユダヤ人である異邦人への伝道の成果として生まれたマケドニアのフィリピ、テサロ

ニケ、ベレア、コリントなどの諸教会の現状をエルサレム教会の主だった人たちに伝えたかったの

ではないでしょうか。また、律法から自由なパウロの福音について、ユダヤ教徒だけでなく、エル

サレム教会の影響下にあったユダヤキリスト者も心よく思っていなかったこと、そのためにパウ

ロが行く先々で圧迫や迫害を受けていることに対して、エルサレム教会の理解を求めようとしたの

かも知れません。

・このようにパウロエルサレム教会に行った理由は、いろいろと想像できますが、おそらくパウ

ロの中にあった思いとしては、お互いの福音理解にいささかの違いがあっても、イエスにおいて一

つであるという信仰ではなかったでしょうか。それゆえに、心を開いて話し合えば、分かり合うこ

とができるという思いではなかったでしょうか。また、エルサレム教会は、全ての教会の母なる教

会であるというパウロの思いもあったことでしょう。ローマの信徒への手紙を読みますと、パウロ

には、神の救済の歴史は、はじめユダヤ人に与えられ、かたくななユダヤ人から非ユダヤ人へ移行

し、そして非ユダヤ人が救済されたら、また再びユダヤ人にという形ですべての人に及ぶという信

仰があったと考えらえます。この時のエルサレム訪問では、ユダヤ人からの圧迫迫害はなかったよ

うですが、第三回伝道旅行を終えて、献金を携えてエルサレム教会に行ったときには、彼を追って

きたユダヤ人らによる迫害を逃れるために、ローマ皇帝に上訴せざるを得ませんでした。この時の

パウロには、対話や説得でも通じない人々による、内ゲバのような暴力には、政治的権力に訴えて

でもそれに対処するしか方法がなかったのでしょう。

・いずれにしても、使徒言行録におけるルカの叙述には、パウロエルサレム教会との間にあった

対立に触れないで調和的に描く傾向があります。たとえパウロエルサレム教会との間に対立があ

ったとして、パウロが神に対する無条件の信頼をもって、信じるところに従って歩んでいくそのパ

ウロの信仰の本質は見失ってはならないと思います。

・この使徒言行録の記事から読み取れるのは、エルサレム教会との関係におけるパウロの信仰者と

しての姿勢ですが、私たちにとっては、その信じる神の真実への無条件の信頼は、社会的な生活の

中でも求められるものだと思います。特に現在の安倍政権による戦争のできる国づくりや東京電力

福島第一原子力発電事故への対応には、人から命と生活を奪う危険な方向に国を動かそうとしてい

るとしか思えません。私たちはイエスの福音に神の真実を信じる者として、自分の与えられた場に

おいて、否を否と言えるもので者でありたいと願います。