なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

使徒言行録による説教(62)

          使徒言行録による説教(62)使徒言行録17章1-9節、


・古代社会での旅は、現代とは比べ物にならないくらい大変な出来事であったと思われます。まず交通手段が、古代と現代では全く違います。古代社会では、基本的には歩くことです。場合によっては馬などに乗ることもあったでしょう。海路は船がありました。船と言っても、現代のような豪華客船では勿論ありませんでしたし、おそらく客船というものではなく、商品を運ぶ船に人が乗ったという程度だったのではないかと考えられます。そのような交通手段だけではなく、治安についても現代とは比べ物にならない位に古代社会は劣っていたでしょう。現代でも行き先の国によっては、スリなどに気をつけなければなりませんし、テロ集団による拉致の危険性もないとは言えません。けれども、古代社会での旅に伴う盗賊による危害からすれば、その発生件数は遥かに古代社会の方が多かったに違いありません。

・そもそも旅に出る人も、古代社会ではごく限られた人々だったと思われます。一つの地方の産物を他の地方に持って行き、それを売る商人だとか、軍人や役人、聖地巡礼にいく人。キリスト教だけでなく、パウロなどのような宗教家の中にも、パウロと同じようにその教えを宣べ伝えるために旅する人がいたかも知れません。それでも、古代社会では、一生自分の生まれた土地で過ごす人が、圧倒的に多かったに違いありません。

・さて、使徒言行録17章1節に、「パウロとシラスは、アンフィポリスとアポロニアを経てテサロニケに着いた」と記されています。使徒言行録の著者ルカは、フィリピの町を出発したパウロとシラスが、途中の町を素通りして、テサロニケの町に到着するまでのことを、このように簡潔に記しています。フィリピの町からテサロニケの町までの距離は約150キロと言われます。二人が素通りしたアンフィポリスは、軍事・通商上の重要な町で、経済的にも隆盛をきわめていました。ローマの属州マケドニアが四つに分けられていた当時、この町はその第一管区の首都でありました。

・高橋三郎さんは、大都市を中心に福音を語り、そこを拠点にして周囲に福音が広がって行くことを期待して宣教活動をしたパウロが、この二つの都市を素通りしたとは考えらないと言っています。そして、「アンフィポリスにおいてもアポロニアにおいても、パウロは福音を語ったのではないかとあるまいか。ルカはおそらく、これらの町々には信徒の集まりである教会が成立しなかったので、記述を簡略にするために、通過した地名のみを記載するにとどめたのではあるまいかと思われるのである」(高橋三郎p.273-p.274)と言っています。或いは、使徒言行録17章1節に、「ここにはユダヤ人の会堂があった」と記されていますので、二つの町にはユダヤ教の会堂がなかったので、パウロは通過したということかも知れません。

・何れにしろ、その点はよく分かりませんが、パウロらはフィリピで鞭打ちと投獄を経験した後に、このテサロニケまでの約150キロの距離を、旅をしたということになります。パウロらはどんな思いでこの旅をしたのでしょうか。

・さて一行がたどりついたテサロニケという町は、紀元前146年以来マケドニア州の首都であった町で、紀元前42年に行われたフィリピの会戦のとき、勝利者オクタヴィアヌスに味方したため自由市の特権を与えられ、民会の選出する「行政官」が市政を司るようになっていました。ユダヤ人も多く住んでいたようです。テサロニケに着いたパウロは、安息日にいつものように、「ユダヤ人の集まっているところに入って行き、3回の安息日にわたって聖書を引用して論じ合い、『メシアは必ず苦しみを受け、死者の中から復活することになっていた』と、また、『このメシアは私が伝えているイエスである』と、説明し、論証した」(2,3節)というのです。ここで「聖書」と言われているのは「旧約聖書」のことです。

・その結果、一部のユダヤ人、ユダヤ教の親派である神を敬う多くのギリシャ人、それに上層階級の女性たちも少なからず、パウロとシラスの仲間になり、テサロニケの町にも信徒の集まりである教会が誕生しました。このことはユダヤ教の会堂に属するユダヤからしてみれば、自分たちの仲間をパウロによって奪われてしまったことになります。「ユダヤ人たちはそれをねたみ、広場にたむろしているならず者を何人か抱え込んで、群衆を集めて町に騒動を起こし、(パウロらが滞在していると思ったのでしょう)。ヤソンの家の前に立って、彼ら(パウロとシラス)を探しました。彼らを民衆のところに引き出そうとしたのです」(5節)。「しかし、二人は見つかりませんでした」(6節)。

・そしてユダヤ人たちは、「ヤソンと何人かの兄弟たちを市代表のところに引っ張って行きました。そして叫んで」こう言ったのです。「これは世界を騒がせている者たちであって、それがここにもやって来たのです。ヤソンがその者たちを自分の家に宿らせていました。そしてその者たちはみな皇帝の勅令に反することをなし、イエスという別の王がいる、などと言っています」(6,7節)と。「これを聞いた群衆と町の当局者たちは動揺し、当局者たちは、ヤソンやほかの者たちから保証金を取ったうえで彼らを釈放した」(8,9節)というのです。これは、パウロとシラスという人物は自分の家にはいない、という誓約書を書かせ、そのための保証金を積ませた上で釈放したということではないかと思われます。

使徒言行録によりますと、パウロらは、フィリピの町に続いてテサロニケの町でも、パウロの癒しや福音宣教が原因となって、反対者により町に騒動が起こされています。パウロらは町に騒動を起こそうとしたわけではありません。フィリピでは、占いの女から霊を追い出したパウロに対して、その占いの女によって儲けていた「主人たち」によって、この人たちはユダヤ人ではないと思われます。このテサロニケではユダヤ人たちによってです。そしてその町を治める当局者にパウロらを訴えています。訴えの理由としてフィリピでは、パウロとシラスが「ローマ帝国の市民であるわたしたちが受け入れることも、実行することも許されない風習を宣伝している」(16:21)ということでした。ここテサロニケでは、パウロらが「皇帝の勅令に背いて、『イエスという別の王がいる』と言っている」ということです(7節)。

パウロらは、10節に、「兄弟たちは、直ちに夜のうちにパウロとシラスをベレアへ送り出した」と言われていますので、このテサロニケではフィリピのようには鞭打ちを受け、投獄されるということはなかったようです。それにしても、このテサロニケにおいて、パウロらに対して、「世界中を騒がせてきた連中が、ここにも来ています」と言われたということ。そしてパウロらの福音宣教が、ローマ「皇帝の勅令に背いて、『イエスと言う別の王がいる』と言っています」と受け取られたということを考えないわけにはいきません。

・このことは、イエスの福音を信じ、イエスに従って生きるキリスト者が、池に投げ込まれた小石のようにこの世の中に波紋を起こし、イエスを主とする神の国の住民として、この世にあっては旅人、寄留者であるということから、必然的に起こることを意味しているのではないでしょうか。イエスは山上の説教の中で、「あなたがたは地の塩である。だが、塩に塩気がなくなれば、その塩は何によって塩味が付けられよう。もはや、何の役にも立たず、外に投げ捨てられ、人々に踏みつけられるだけである。あなたがたは世の光である。山の上にある町は、隠れることができない。また、ともし火をともして升の下に置く者はいない。燭台の上に置く。そうすれば、家の中のものすべてを照らすのである。そのように、あなたがたの光を人々の前に輝かしなさい。人々が、あなたがたの立派な行いを見て、あなたがたの天の父をあがめるようになるためである」(マタイ5:13-16)と言われました。

バークレーは、<「天下をかき回してきたこの人たちが、ここにもはいり込んでいます」。この言葉は、これまでキリスト教に与えられた最大の賛辞である」と言っています。私は、最近大分長い時間をかけて、土肥昭夫さんの『天皇制とキリスト』という本を読み終えました。この本は、明治以降の日本のキリスト教史における指導的な人物やキリスト教主義学校等が、天皇制をどのように受け止めていったのかについて、資料に当って分析したものです。内村鑑三の不敬事件のような事例は、他にも一、ニありますが、ほとんどは天皇制に寄り添う言論・行動に終始しています。明治以降の日本のキリスト教は、この社会の中にあって旅人、寄留者としてではなく、仏教や神道と同じように日本社会に認められる道を自ら選んでいったと言えるでしょう。

・ある人が、キリスト教には二つの方向性が本来明確にあるのではないかと言っています。一つは、キリスト教は本来この世で苦しんでいる人、弱い立場の人に寄り添うものではないかということ。もう一つは、キリスト教は権力に対しては抵抗の姿勢を明確にしているということです。この二つのキリスト教本来の姿勢からしますと、明治以降の日本のキリスト教の主流は、この二つのどちらも曖昧にして来たのではないでしょうか。土肥昭夫さんは、天皇制に迎合してきた明治以降の日本のキリスト教にとって欠けていた一つの視点として、民衆への視点がなかったことを挙げています。イエスは、神の国の福音を宣べ伝えましたが、その神の国の福音を誰と共に与っているかということを見失ってはなりません。イエスは、正統的なユダヤ人からは嫌われていた病人や罪人や徴税人や遊女たちと共に食卓を囲んだのではないでしょうか。そのイエスの振る舞いも、当時のユダヤ社会では騒動の理由になったに違いありません。バークレーが、<「天下をかき回してきたこの人たちが、ここにもはいり込んでいます」。この言葉は、これまでキリスト教に与えられた最大の賛辞である」と言っていることは、イエスにこそ当てはまると言えるのかも知れません。バークレーは、また、続けて<T・R・グローヴァが喜んで引用した子供の言葉がる。その子は「新約聖書はレボリューション(革命)で終わるんだね」といった(訳注・レヴィレイション「黙示録」を読み違えた)。確かに、キリスト教が行動するとき、個人の生活と社会の生活の両方に、革命をひき起こすはずである」と言っています。

・革命などという大げさなことでなくても、イエスの福音によって方向転換した私たちは、この社会の中で異質な存在として、その輝きを失わないでいたいものです。