船越通信癸隠毅機 。横娃隠看4月13日
・6日の日曜日には、礼拝後昼食会、説教についての話し合い、そして役員会がありました。説教につい
ての話し合いの中で、私が紹介した文章を下記に記しておきます。説教とは何か、説教を聞く会衆は、説
教をどのようなものとして聞くのか、ということなどについて、私としては同感できる考え方が述べられ
ています。皆さんも参考にしていただければ幸いです。その文章は、水野隆一さんという関西学院神学部
の教師が書いた『アブラハム物語を読む~文芸批評的アプローチ~』の「読者への招待状~あとがきに代
えて~」の中にあります。
・「私自身は、・・・ここに提示した読みが、唯一のものであるとも、これまでの研究を凌駕した正しい
ものであるとも考えていない。私という制限のある一人の読者が、持てるだけの知識と感性を動員して、
『アブラハム物語』というテキストを読んでみた、その結果がここにある読みなのである。それ以上でも
以下でもない。読者にはこの読みを参考にして、勿論、賛成したり反対したりしながら、ご自分の読みを
見つけていただきたいと願っている」(p.482)。この後、1996年7月号の「信徒の友」に、新共同訳旧約
聖書注解気凌緻醂完譴気鵑痢屮茱札嬖語」を読んで、旧約学者の木田献一さんが書いた文章が引用され
ています。「自分の解釈を一生懸命してみたが、何もこれに縛られる必要はない、自分で読み取らなけれ
ばならないと著者はわざわざ断っています。これは読者への一種の挑戦です。・・・バランスをとった
り、平均的な見方をするのではなく、少なくともこう読むのが著者としての最善の理解だと思うが、読者
もそれぞれ自分の読みを打ち出せるくらいまで読んで、それから著者の注解とつきあわせることによっ
て、共同の読みとか、新しい読みができてくることを注解に書いています」(p.482~p.493)。そして水野
隆一さんは、「『テキスト』を中心としたつながり」を提唱しています。このことは私たちの礼拝におけ
る説教者と会衆の関係においても大切な指摘ではないかと思います。では「『テキスト』を中心としてつ
ながり」について水野隆一さんはどう述べているのでしょうか。以下が水野隆一さんの考えです。
・<「『物語』を中心とする共同体」の場合、「物語」が導いていこうとする方向を疑ったり、保留的態
度を示したりすることはあり得ない。その点で実は「『物語』を中心とする共同体は「『物語の解釈』を
中心とする共同体なのである。この共同体における「物語」には唯一の正しい「解釈」が存在し、その
「解釈」に賛同できない者、疑問があったり、態度を保留しているものは、その共同体に関わることがで
きない。
「『テキスト』を中心とするつながり」というとき、「テキスト」だけが共通しており、「解釈」の共
有は考えていない。同じテキストをめぐって、どのような解釈があってもいいし、それは受け取る者に
よって違っていい。読者は、それぞれが固有の経験を持ち、独自の感性を有している。同じテキストでも
その読みが異なるのは、自然なことである。しかし、ただそれぞれが「自分はこう読む」と思っているだ
けでなく、それを披歴し合い、語り合って、またそれぞれの解釈を深め、豊かにしていくような対話が可
能になるとき、木田献一氏が指摘してくださったように、そこに「共同の読み」が生まれるのだろう。お
そらく礼拝や説教も、そのようなテキストの提示として考えられるのではないかと、密かに思っている。
聖書が「正典」として、つまり「共通のテキスト」として存在するようなつながり、私にとっては、それ
が教会の姿である。聖書の「物語」、つまりテキストのある種の解釈が共同体を「結びつける」のではな
く、聖書の「テキスト」をめぐる「対話」が人々を結びつけるのである>(p.484)。
・少し長くなりましたが、大切な指摘ではないかと思いますので、皆さんと共有できればと思って、6日
の日曜日の説教の話し合いでも読んで紹介しましたが、ここに文字として掲載させてもらいました。さて
日曜日の説教についての話し合いの中で、連れ合いが名古屋時代に出会った沖縄のアラガキナエさんのこ
とを紹介していました。私も一緒に聞いていましたが、連れ合いが言っていましたように、ナエさんはか
つて沖縄の佐敷教会の牧師に当時沖縄短大にいた平良修さんを説得して呼んで来た方で、毎週礼拝説教の
テキストを前もって自分で読んできて、平良牧師の説教に納得できないときは、平良牧師に食い下がって
質問したというのです。すごい人だと思いました。
・8日の火曜日は農伝の説教演習の授業がはじまりましたので、農伝に行ってきました。今年は聴講を含
めて7名の学生が受講しますので、多様な意見が出る可能性があります。解放感をもった学びの場にでき
ればと願っています。上記に記しました水野隆一さんの「『テキスト』を中心とするつながり」について
も、そこで紹介させてもらいました。
・12日の土曜日午前中に、業者の人が来て、船越教会の道路側崖を見てくれました。落石があったとい
うことで、町内会の人が教会に来ましたので、何か手だてがあればということで、業者の方に見てもらっ
たわけです。業者の方は、一通り見てくださり、もう一度専門業者の方を連れて見てから提案を出してく
れることになりました。落石は大きな石の間にあるのが浮き上がって落ちてくるのではないかと思われま
す。そんなに大きなものではないと思うのですが、それでも危険が伴いますので、費用があまりかからな
いで、何とかその危険を除去できる方法があればと願っています。
・さて、船越でラジオをつけて、何となく聞いていましたら、明治学院の教授で文学者の高橋源一郎さん
がホームレスの自立支援の一環で、ビック・イシューという雑誌販売のことに触れて、ビック・イシュー
の連載が本になったのでしょうか、その点は聞きそびれてしまいましたが、その『ホームレス人生相談』
という本に書かれている事例を二三紹介していました。聞いていて、ホームレスの方の質問に対する応答
が、なんとも味わい深く、説得力もあり、素晴らしいものなのです。それに対して、高橋源一郎さんは、
文章には三つのタイプ、上からの目線、横からの目線、下からの目線があり、ホームレスの回答は下から
の目線によるから説得力があるという趣旨のことを話していました。高橋さんは、下からの目線の言葉
は、自分の肉体を通過した言葉であるとも言っていて、なるほどと思わされました。ラジオを聴いている
と、時々ハッとさせられる言葉に出合います。