なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

黙想と祈りの夕べ通信(399)復刻版

 黙想と祈りの夕べ通信(399)復刻版を掲載します。2007年5月のものです。

      
        黙想と祈りの夕べ通信(399[-34]2007・5・20発行)復刻版


 葬儀の時のテキストに子どもを祝福するイエスの物語の聖書の箇所はふさわしくないと思われる方もあ

るかも知れません。けれども、教会でのFさんのことをよく知る方にとっては、「子どもを抱き上げ、手

を置いて祝福された」というイエスの姿に、よくお母さんやお父さんと一緒に来た幼児を抱いて、笑わせ

ているFさんの姿が重なるのではないでしょうか。教会のおじいちゃんと自らもおっしゃっていましたよ

うに、幼児の中には教会にもおじいいちゃんが一人いると思われた子もいたかも知れません。みなさんも

ご存知のように、ふっくらとおかめを思わせるようなにこやかな顔立ちと、人を喜ばせることを何よりも

楽しみにしていたFさんの人柄が、警戒心の強い幼児の心を自然と開いていくのでしょう。そのようなFさ

んの人となりを思い出しながら、この前夜式の聖書箇所を選ばせていただきました。

さて、Fさんの死は、青天の霹靂というか、本当に突然やってきました。13日は日曜日で教会の礼拝があ

り、Fさんは出席していました。礼拝後に当紅葉坂教会の総会がありましたが、それにも出席していまし

た。総会の中では発言もなさいました。午後3時近くまで総会がありましたが、最後まで出席して、総会

が終わってから帰途につきました。

 私が、お連れ合いのCさんからFさんが亡くなったという電話をもらいましたのは、夜中の0時半頃でし

た。Fさんを自宅に搬送するので葬儀屋さんに連絡して欲しいとのことでしたので、すぐ連絡して手配を

しました。臨終の時も過ぎていましたし、Cさんの声も落ち着いていましたので、最初は翌朝自宅にうか

がう約束をして電話を切りましたが、いても立ってもいられず、連れ合いとFさんが入院していた病院に

駆けつけました。しばらく待ち、処置が終わったFさんの顔を見ましたら、笑っているようで、ほっとさ

せられました。Fさんは13日の日の夕食までは、お元気でした。食事が済んで、2階の部屋で一人で何かし

ていたようです。比較的早めに寝るのに、9時になっても降りてこないので、Cさんと次男の方が行ってみ

て、Fさんの異常に気づき、救急車で緊急入院しましたが、急性心筋梗塞で、7月になりますと満74歳にな

りますから、ほぼ74年の生涯を歩み、突然召されて神さまのところに帰って行かれました。

 Fさんは、気持ちの良い善意の人でした。文字通りの「いい人」でした。善意の人には、善意の押し付

けの誘惑がつきまといますが、Fさんにはそういうところは殆ど感じられませんでした。私は、そういうF

さんは、ある意味でFさん自身が、一人の愛された幼児のような方ではなかったかと思います。多く愛さ

れた者は多く愛することが出来ると聖書にもありますが、幼児のようなFさん自身が多く愛されたのでは

ないでしょうか。ですから、自分をよく見せようとか、自分を守ろうとかいう自己愛から解放されて、関

わりある他の人のことを思いやることができたのではないでしょうか。

 Fさんは、Cさんもおっしゃっていますが、とにかく良く動く人でした。関心が常に自分の外にあったよ

うい思います。内省的な人というよりは、外交的な人でした。正義感の人でしたので、不条理なことがあ

れば、人にはっきりと物言うことはありましたが、どんな人ともお付き合いができました。

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 人の死は、その時期にしろ、どのような死に方にしろ、私たち人間の思いや願いを超えてやってくるも

のです。Fさんの死は、本当に突然にやってきました。ですから、多分ご家族をはじめ、友人・知人の

方々も、今はすぐにFさんの死を受け容れられないと思います。そのような違和の思いを抱えながらも、

約74年のFさんの生涯は、幼児がイエスに抱かれているように、神の愛に育まれ、ご本人は喜びと感謝に

満たされていたのではないかと推察いたします。そして、突然の神さまのお迎えに、ご本人も戸惑い、

「神さま、それないでしょ」と言いつつも、Cさんのことを含め後のことは、「神さま、よろしくたのみ

ますよ」とおおらかにお願いしているのではないでしょうか。ある意味で、そのように幼児のような素朴

 さに、私たちは返って慰められるのではないでしょうか。Fさんが神さまのもとにあって平安のうちに

あることを信じ、み手にお委ねしたいと思います。遺されたCさんはじめご家族、ご遺族の方々に慰めが

豊かにありますように、共に祈りたいと思います。
 
 以上はFさんの前夜式のお話の抜粋です。      
 


               イエスの自由(5月20日)


 イエスは真に自由でした。イエスの自由は、ご自分が神の愛する子であるという霊的な自覚に根差して

いました。生まれる前から自分が神のものであり、神の愛を宣べ伝えるために世に遣わされ、使命を果た

すと神のもとへ戻って行くことを、存在の深みで知っておられました。そのためにイエスは世にへつらう

ような語り方をしたり、振る舞ったりしないでよい自由を持っておられました。そしてまた、人々の苦し

みに神の癒しの愛をもって応える力がありました。

 そういうわけで、福音書は次のように語っています。「群衆は皆、何とかしてイエスに触れようとし

た。イエスから力が出て、すべての人の病気を癒していたからである」(ルカ6:19)。


                   (ヘンリー・ナウエン『今日のパン、明日の糧』より)