なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

エレミヤ書におる説教(7)

     「困った時の神頼み」エレミヤ書2:26-28、2015年5月3日(日)礼拝説教

・先日29日に、藤沢で藤沢の9条の会による10周年記念集会がありました。その時孫崎享(うける)さ

んの講演かあり、私も聞きに行きました。孫崎享さんは講演の中で、今日の船越通信にも書いておきまし

たが、戦後すぐに出された伊丹万作氏(伊丹十三の父親)の『戦争責任者の問題』に触れて、「多くの人

が、今度の戦争でだまされたという。おれがだましたのだといった人間はまだ一人もいない」。「『だま

されていた』といって平気でいられる国民なら、おそらく今後も何度でもだまされるだろう」という伊丹

万作氏の言葉を紹介して、市民である私たち一人一人の自覚と責任の大切さについて語っていました。孫

崎さんは、今の安倍政権の暴走に対して、一市民としてきちっと批判し、対峙していかないと、かつての

戦争に巻き込まれたときと同じようになるという警鐘を鳴らしていたのではないかと思います。

・今から約2640年前に、預言者エレミヤは、創造者であり救済者である神ヤハウエの下に、命与えられた

イスラエルの民一人一人は何物にも代えられない尊厳が与えられていて、自立した人間として愛と正義を

大切にして生きて行くという、彼ら・彼女らの固有の人間としてのあり方を見失ってしまっている状況に

あって、預言者としてそのイスラエルの民に向かって言葉を発しているのであります。おそらくエレミヤ

は一個人として、何らかの組織に一切頼らずに、自らの責任においてその言葉を発しているのではないか

と思います。
・ 今日の箇所の最初の26節には、先ずこのように言われています。「盗人が捕えられて辱めを受け

るように」(26節a)と。これは一つの比喩でしょうが、エレミヤは彼の目にしているイスラエルの民の現

実をそのような比喩でとらえているのであります。盗人が捕まって、その行為を裁かれるということは、

その盗人にとっては辱めを受けることであります。

・人が神に造られた身でありながら、神ならざる「木」や「石」を神とする時、その事自身が恥ずかしい

ことであると、エレミヤは言います。<彼らは木に向かって、「わたしの父」と言い、石に向かって、

「わたしを産んだ母」と言う>(27節a)と。

・私が住んでいます秦野の鶴巻温泉の近くに大木のケヤキがあります。「鶴巻の大ケヤキ」と呼ばれていて、

その木を中心に10メートル四方が入口を除いて小薮で囲まれています。樹齢600年と案内板に書かれていて、

道路に面していますので、枝は伸びっぱなしではなく、刈り込まれていますので、幹の太さの割には木の高

さはそんなに高くありません。中にはベンチがあって、そこで休むことができます。道路からしますと、木

の裏側ですが、そのベンチの前に、確か小さな石でできたお墓のお線香置きのようなものがあって、その前

で手を合わすのではないかと思います。今は神奈川県の名木100選に入っていますが、昔はご神木のような形

で、その近くの人たちから拝まれていたのかも知れません。

・古代社会では、木だけはなく、大きな石、変わった形をした石なども、崇拝の対象とされていたのでしょ

う。このような聖木崇拝や聖石崇拝は、木や石に何かの精霊(ヌーメン)が宿っていると見る原始的な宗教

で、古代においては、地域を超えて広く世界の至る所にあった宗教と言えましょう。おそらくバール宗教は、

その祭儀をつかさどる職能的な霊的存在を中心として祭儀が行われていたのでしょうから、それ以前の段階

ですでに古代人の中で行われていた聖木崇拝や聖石崇拝を取り入れていたものと考えられます。

・<彼らは木に向かって、「わたしの父」と言い、石に向かって、「わたしを産んだ母」と言う>(27節a)

という今日のエレミヤ書の箇所では、バール宗教が木や石のような自然の物を神として礼拝の対象にしてい

たことを物語っています。イスラエルの民もそのような振舞に陥っていたというのです。

・この古代人の姿は、非宗教的な形で現代人にも引き継がれているように思われます。私たち現代人は、権

力や富と共に技術を神のように崇拝しているのではないでしょうか。「原発安全神話」もその一つではな

いかと思われます。科学的にはまだ未完成の技術である原子力発電を、「原子力安全神話」と「経済優先神

話」に私たちが頼って生きてきたので、東電福島第一原発事故という取り返しのつかない事故を引き起こし

てしまったのではないでしょうか。その深刻な反省に立って、脱原発に舵を切るべきなのですが、ご存知の

ように現在の政府も電力会社も原発再稼働に動いています。神の前に各人が人間として尊重されることより

も、神を無視し、人間を犠牲にしても経済至上主義を貫こうとしている資本の奴隷になっているかのようです。

・また、軍事力に頼ったアメリカのイラク戦争が、鬼子としてのイスラム国を生み出してしまったと考えられ

ますが、そこには「軍事力神話」があるのではないでしょうか。安倍首相は「積極的平和主義」などと詭弁を

使って、集団的自衛権の行使を米軍と一体となって進めようとしています。憲法9条に基づく軍事力によらな

い平和ではなく、軍事力に頼る安全保障に積極的です。安倍首相の中にも「軍事力神話」が強くあるのでしょ

う。

・更に消費文化を神とする現代社会は、次々に新しいスポットを作り続けなければなりません。スカイツリー

の次には何ができるのでしょうか。

・関根正雄さんは、私たちが身近に心にかけているものも、それが神の賜物として受け取られない限り、偶像

になると言っています。「現代の文化人は最早木や石を拝まない。然し学問や芸術や宗教や友情や恋愛や家庭

や、人が凡そその心をかけて生きるものは、それが唯一の真の神の賜物として受け取られない限り、人の造っ

た偶像である」(傍点筆者)と。ここには、原子力や軍事力や経済至上主義や消費文化だけでなく、「学問や

芸術や宗教や友情や恋愛や家庭」のようなものまでも、それらを神の賜物として私たちが受け取らない限り、

偶像崇拝になりかねないというのです。

・このようなことを考えますと、木や石に向けられていた古代人の偶像崇拝が私たちには全く関係ないという

ことは、言えないのではないでしょうか。むしろ非宗教的に形を変えて、現代人である私たちの中にも様々な

偶像崇拝がはびこっておると言えるのではないでしょうか。

イスラエルの固有のあり方は、神の前に各人が人間として尊重されることでありました。真の神を父と呼び、

母と呼ばないとき、人間は《木》や《石》に向かって、《父》、《母》と呼ぶようになる(27節a)のです。自分

の自由になるものを神としていますが、そのようなものは、人間の生存が問われるときには何の役にも立ちませ

ん。イスラエルは《災難に遭えば》、神に向かって助けを求めますが、そのような神々は人間を助けることはで

きない(27節b)というのです。生ける命の源である方に軸を据えて自立した人間として生きて行くのではなく、

自分の自由になるという錯覚によって神でないものを神としてたてまつって行くとき、それらのものは危機的

な状況においては何の力にもならないというのです。

・エレミヤは言います。<わたしに顔を向けず、かえって背を向け/しかも、災難に遭えば/「立ち上がって

/わたしたちをお救いください」と言う。/お前が造った神々はどこにいるのか。/彼らが立ち上がればよい

のだ/災難に遭ったお前を救いうるのならば。>(27節b~28節a)。と。

・今日の説教題は「困った時の神頼み」とつけました。ヨーロッパには「機械仕掛けの神」という言い方があ

るそうですが、人が困った時に神に頼るのですが、そのように人が必要とするときに、それに従って顔を出す

人の都合に合わせた神のことを「機械仕掛けの神」と言うのではないかと思います。しかし、そんな神はいま

せん。エレミヤは、「本当の危機に臨んで人は偶像が何の役にも立たないことを知り絶望の叫びをあげるが、

顔を神に向けない彼ら・彼女らを神と雖も助けることは出来ない」というのです。「平常より頼んでいた神々

はそのような時こそ彼ら(・彼女ら)を助けるべきである。いざという時に人を救わない神々なら一層始め

から拝まない方がよいからである」と。

・私たちが神でないものを神として崇拝して、それに頼って生きて行くとするならば、真理にふたをして、

偽りの世界で生きて行くことになるのではないでしょうか。もしそうであるとすれば、私たちが頼っている

ものは、何時どのような状況にあっても変わることのない真(まこと)ではありませんので、危機的な状況に

おいてその人を支える命はないのであります。

・エレミヤは真実の人です。それは何よりも命の源である方の下に立ち、その信仰に基づいて生きたからで

す。エレミヤの真実はその信仰から与えられた神の真実に対応する真実でした。自分の中から生まれたもの

ではありません。「アバ、父よ」と神に祈り、神と格闘しながら生きたナザレのイエスと同じように、エレ

ミヤも何よりも命の源である方、神ヤハウエと格闘しながら、その神との格闘から与えられた真実に身をゆ

だねて生きたのです。そして、彼の生きた時代と社会の中で自らの足で立って生きたのです。ですから、命

の源である方から離れて、目先の偶像を崇拝して歩んでいるイスラエルの民の偽りの現実を容認することが

できませんでした。ですから、「盗人が捕えられて辱めを受けるように/イスラエルの家も辱めを受ける/

その王、高官、祭司、預言者らも共に」(26節)と語らざるを得ませんでした。それはイスラエルの民をただ

非難するためではありませんでした。イスラエルの民は神に選ばれた民です。その民が神の選びにふさわし

く歩まなかったとすれば、誰が愛と正義に基づく神の真実によるこの世の真の姿を指し示すことができるで

しょうか。エレミヤは圧倒的な偶像崇拝に冒されて、道を踏み間違えているイスラエルの民を放置できなか

ったのです。

・そのエレミヤの言葉を、2600年以上経った今、日本人の私たちが聞くことが出来るのは、エレミヤがあの

時代と社会の中で、真実の言葉を語ってくれたからなのです。たった一人でも。すべては一人から始まるの

ではないでしょうか。エレミヤとエレミヤの言葉を噛みしめたいと思います。