「命の道を外れて」エレミヤ書7:16-26,2015年10月18日(日)船越教会礼拝説教
・先日寿地区活動委員会で同じ委員として一緒に活動しています、そろそろ80歳になろうとしている方が、
大学時代の友人数名と旅行に行って来たと言うのです。その友人たちは、中には今も現役の人もいるが、
企業で働いてきた人たちで、その人は、日本の国がこれまでとは違って戦争のできる国に成ろうとしてい
る、今問題になっている安保関連法案成立に伴う集団的自衛権行使のことも話題にしたかったようですが、
友人たちはそのような問題には全く関心がないようで、話題にすらならなかったと嘆いていました。実際
にその友人の方々がどのように考え、どのように生きて来たのかについて詳しいことは分かりませんので、
何とも言えませんが、一般的に言えば、企業で働いて、ある程度高収入を得てきた人の中には、目先の自
分の生活を優先して、政治のことも、この同じ社会の中で、犠牲を強いられて生きている他者のことも、
ほとんど視野に入らないで生活している人も多いのではないかと思います。自分の幸福追求を第一義に生
きて来て、ある程度その願望が満たされている人は、それで自己満足してしまうのでしょう。自己満足し
ている人には、その人を根底から揺さぶる問題を話題にしようとしても、聞く耳を持ちません。ですから、
話題にもならないということが起こり得るのです。
・実は今日のエレミヤ書の箇所で、エレミヤが直面している問題も、それと同じではないかと思われます。
エレミヤはイスラエルの民と連帯したいのですが、両者はその在り様によって切り裂かれざるを得ない。
そういう状況にエレミヤは置かれているのです。エレミヤは、神から<あなたはこの民のために祈っては
ならない。彼らのために嘆きと祈りの声をあげてわたしを煩わすな。わたしはあなたに耳を傾けない>
(7:16)と言われたのです。エレミヤにとって、民のために執り成し祈ることは、預言者の重要な任務で
あったはずです。預言者には、神の言葉を民に一方的に語るだけではなく、民の執り成しの務めも与えら
れていたからです。その民への執り成しが、神によって禁止されたのです。
・それは何故でしょうか。エレミヤがどんなにイスラエルの民に語り掛けても、彼ら・彼女らはエレミヤ
の語る言葉に耳を傾け、その呼びかけに答えることはないからだと言うのです。27節にこのように語られ
ています。<あなたが彼らにこれらすべての言葉を語っても、彼らはあなたに聞き従わず、呼びかけても
答えないであろう>と。ですから、エレミヤに向かって神は、このように語り掛けているのです。<それ
ゆえあなたは彼らに言うがよい。「これは、その神、主の声に聞き従わず、懲らしめを受け入れず、その
口から真実が失われ、断たれている民だ。」>(28節)と。
・そのように断定されているエレミヤが対面しているイスラエルの民とは、どのような民だったのでしょ
うか。イスラエルの民は異教の神である、<三日月もしくは金星が象徴であった「天の女王」すなわちア
ッシリア=バビロニアのイシュタル女神崇拝>に熱中していたというのです。17節以下にエレミヤに語ら
れた主の言葉としてこのように記されています。<ユダの町、エルサレムの巷で彼らがそのようなことを
しているか、あなたには見えないのか。子らは薪を集め、父は火を燃やし、女たちは粉を練り、天の女王
のために献げ物の菓子を作り、異教の神々に献げ物のぶどう酒を注いで、わたしを怒らせている>(17,
18節)と。ここには私たちの日常的な営みが神を怒らせていることがあるという現実が示唆されています。
・この異教の神への祭儀に熱中するイスラエルの民の姿は、世俗的な経済優先の現代日本社会の中で富を
求め、豊かな生活を享受することに邁進している私たちの姿に重なるように思えてなりません。「天の女
王」イシュタル女神崇拝も宗教的な形をとっていますが、その根にあるのは、宗教に託した人々の幸福追
求であったと考えられます。自分たちの願いを神に投影し、その神を崇拝することによって自分たちの願
いを実現させようとする、利己的な人間の営みです。そのような宗教における神は、人間にとって絶対他
者ではありません。私たち人間の願いや思いとは、全く別の神固有な意志をもって私たち人間に対面し、
私たちに迫る人格的な聖書の神ではありません。そのような人間の利己的な願いを満足させる「天の女王」
イシュタル崇拝に熱中していたイスラエルの民は、そのことによって彼ら・彼女らに命を与え、彼ら・彼
女らをエジプトの奴隷状態から解放して、お互いの命と生活を脅かさない人間の歩むべき道に導く神の怒
りを招いているのです。18節で<わたしを怒らせている>と言われているのは、そのことです。
・けれども、今日のエレミヤ書では、更にこう付け加えられています。<彼らはわたしを怒らせているのか
ーーー主は言われるーーーむしろ、自らの恥によって自らを怒らせているのではないか>(19節)。<すな
わち、人間は自分の罪によって、神をではなく自分自身を害うことになるのだと>言うのであります。<そ
してその自分の罪により人間が神の怒りをかい、もはや救いようもない破局を国全体に惹き起こすに及んで、
望んだこととは全く逆の結果を自らに招くことになるということを「恥じ入って」>知らなければならない
のだと言われているのです。
・このように記されているエレミヤ書の言葉は、明治以降富国強兵で歩んできた日本の国が1945年の敗戦に
よる破局を迎えたことにも当てはめられるように思われます。また、経済成長を謳うアベノミクスと集団的
自衛権の行使容認の道を開き軍備増強を進めようとしている安倍政権のめざすものが最終的には破局を迎え
ざるを得ないことを考えますと、このエレミヤ書の言葉は、現在の安倍政権にも当てはまるように思われま
す。安倍首相は彼が掲げている「積極的平和主義」では平和は造り出せないことを、恥じ入って知らなけれ
ばならないのです。
・今日のエレミヤの預言では、天の女王に菓子をささげる異教的行為に対する批判にとどまらず、更に進ん
で祭儀一般に対する批判が語られています。<わたしはお前たちの先祖をエジプトの地から導き出したとき、
わたしは焼き尽くす献げ物やいけにえについて、語ったことも命じたこともない。むしろ、わたしは次のこ
とを彼らに命じた。「わたしの声に聞き従え。そうすれば、わたしはあなたがたの神となり、あなたがたは
わたしの民となる。わたしの命じる道にのみ歩むならば、あなたたちは幸いを得る。」>。「わたしの命じ
る道」とは、神を大切にし、隣人を自分と同じように大切にして生きる律法(十戒)が示している人の道で
あります。これは代表的に預言者ミカの言葉によって語られたことでもあります。<天よ、何が善であり/
主が何をお前に求めてもられるかは/おまえに告げられている。/正義を行い、慈しみを愛し/へりくだっ
て神と共に歩むこと、これである>(6:8)。これは、イスラエルの民に語られた言葉でありますが、現在
においてもすべての人々に向かって語られている言葉でもあります。しかし、利己的な私たちはこの教えが
示す道に生きることを嫌います。信仰者だけではなく、人は自分と同じ他者の存在を認めなければ生きてい
けません。けれども、その他者と共に生き、お互いにそれぞれの命と生活がまもられなければ、真の平和が
ないことを、暗黙の裡に知りながら、利己的な私たちは他者を踏みつけて自分だけの幸福を求めてしまうの
です。この人の道を知りながら、その道に従って生きることができない私たちの利己的な姿にこそ、神の律
法への不服従が最もよく現れているのではないでしょうか。その罪から解放されないために、私たちは己の
罪に苦しまなければならないのです。しかも聞く耳を持たないで自己正当化を常に試みる者には、何を語っ
ても届かないがゆえに、彼ら・彼女らを彼ら・彼女らの歩みに委ねるほかありません。たとえ、その結末が
滅びと分かっていても、聞く耳の無い人間にはそれ以外にないからです。真に厳しい現実です。
・さて、民への執り成しを禁じられたエレミヤは、<単に預言者のつとめのひとつであるとりなしの活動が
制限されたということばかりか、彼の生の必須な条件であった、個人的な共感溢れる連帯責任という民との
絆を、どんなに苦しくとも、放棄せよ、との命令>でありました(ATD、202頁)。<このように、最も深い
人間の連帯意識を犠牲にすることも、神が彼を使者として神の側に立たしめるために、神自らが要求するの
である>と言われます(ヴァイザー)。つまり、エレミヤはイスラエルの民との連帯を断ち切って、ひとり
神との関係に自分を賭けて生きることになるのであります。関根正雄さんは、<預言者として活動し得ざる
境位において、エレミヤは却って預言者ならざる預言者、真の預言者とされたとも言い得るであろう>と言
っています。これはどういうことなのでしょうか。私はこのように受け止めました。預言者は神の言葉を語
る者です。通常はエレミヤの場合、預言者としてイスラエルの民に神の言葉を取り次ぐと共に、民の執り成
しを神に取り次ぎ、神と民の仲立ちをする使命が与えられているわけです。ところが、民との関係が断絶し
してしまったエレミヤは、神の言葉を語る預言者としてではなく、神の言葉を一身に自分のからだで受け止
め、神の言葉によって自らが生きることによって、民が聞こうが聞くまいが、自分のからだで神の言葉を語
る、「預言者ならざる預言者、真の預言者とされた」のです。私は関根さんの言葉をそのように受け止めま
した。
・これは大変重要なことを語っているように思います。イエスも受難と十字架死において、弟子たちを含め
てみんなが自分のもとを去って行ってしまったとき、ひとり神との関係を貫いて、人間がどう生きるのかを
ご自身のからだによって証言したと言えるのではないでしょうか。信仰とは、他者との関係の中でその命の
光が輝くと共に、他者との関係において絶望的であったとしても、単独者としての己の中だけでも、その命
の光を輝かすという可能性があることを、肝に銘じておきたいと思います。これは預言者エレミヤだから可
能なのであって、私たち名もなきキリスト者、ただの信徒には当てはまらないと思われるかも知れませんが、
神との関係においては、教職も信徒もなく、預言者もただの信仰者もありません。他の人がどうであろうと、
神との関係においてこの私がどう生きるのかという課題から、誰も逃れることはできません。
・今日は預言者として執り成しを禁じられたエレミヤから、この大切な信仰者の現実をもう一度想い起し、
今この時代を生きる一人の信仰者としての己の糧にしたいと思わずにはおれません。