なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

使徒言行録による説教(66)

       使徒言行録による説教(66)使徒言行録17:30-34
             
・前回私たちは「我らは神の中に生き、動き、存在している」という使徒言行録17章28節の言葉によって、

また、「我らは神の子孫である(田川訳:神の一族である)」(同)という言葉によって、私たちの存在

と生活が、この現代社会という目に見える歴史的な現実と関わっているだけではなく、見えない神の支配

の中に、神の懐の中に生かされて在るということを学びました。

・そしてそのことは、アテネの人々にとってもよく知られていることでした。「知られざる神に」という

祭壇まで作って、彼ら・彼女らは様々な神々を祀っていたからです。しかし、アテネの人々は、神を「人

間の技や考えで造った金、銀、石などの像と同じものと考えていた」ようです(17:29)。人間の技や考え

で造った偶像は、勿論人間である私たちを超えて、私たちと向かい合う生きた神ではありません。私た

ちに語りかけ、ご自身の意志や思いを私たちに伝える神ではありません。そういう意味では、人間の技

や考えで造った偶像は死んだ神あって、私たち人間からの一方的な願望や欲望の投影と言えるかもしれ

ません。少なくとも人格的な存在者ではありません。けれども、パウロにとって、神はご自身の固有の

意志と思いをもって、私たち人間に迫って来る存在でした。

・「我らは神の中に生き、動き、存在している」にしろ、「我らは神の一族である」という、ギリシャ

の詩人の言葉は、聖書の神を前提にして語られているのではありませんでした。ギリシャ人であるアテ

ネの人々にとっては、自分たちは神話的な神々の中に生きているという一つの認識だったのです。

・ですから、パウロが「さて、神はこのような無知な時代を、大目に見てくださいましたが、今はどこ

にいる人でも皆悔い改めるようにと、命じられています」と言って、我らがその中に生き、動き、存在

している神が、私たちに「悔い改めを命じる」意志をもって迫って来る生ける神であると、アテネの人

々に語った時に、彼ら・彼女らは、このパウロの言葉を素直に聞くことができませんでした。

アテネの人々にとって、神は人間の想像上の神話的な存在であって、聖書の神のように歴史に働く神で

はなかったからです。聖書の神は、天地創造、人間創造の神であり、また歴史に働く神であります。アダ

ムとイブをエデンの園に住まわせた神は、これだけは食べてはならないと命じた禁断の木の実を、それを

食べれば神のようになれるという蛇の誘惑に負けて二人が食べてしまったとき、二人をエデンの園から追

放されました。

・それ以来人間が神に造られた存在であるにも拘わらず、神に逆らって自己主張するときに、神は様々

な形で、人間の歴史に介入する歴史に働く神として、聖書は神について語っているのであります。イス

ラエルの王国時代には、権力者の不正に対して、権力者を批判する預言者を通して、神はかく生きよ

ご自身のみ心を示して、人々に迫る方でした。アテネの人々には、おそらくそのような神は考えられな

かったのではないでしょうか。

・悔い改めとは、それまで生きてきた生き方の方向転換です。東京に向かって走っている新幹線を、博

多行きに乗り換えることです。180度の方向転換が悔い改めです。自己中心的に生きてきた私たちが、イ

エスとイエスの神を中心に生きる者になること、それが悔い改めです。その悔い改めを神は私たちに命

じていると、パウロアテネの人々に語ったのです。そして神がなぜ私たちに悔い改めを命じるかとい

うと、「というのは神はすでに、義において人間世界を裁くべき日をお決めになったからです」(31節

、田川訳)とパウロは続けて語っているのです。

・マタイ福音書の山上の説教の中に、有名な、空の鳥、野の花を指示しながら語ったイエスの教えが記

されています(マタイ6:25-34)。衣食住に思い煩う人々に対して、空の鳥は労せずして食べ物を与えら

れているではないか。野の草は、今日生えていて、明日は炉に投げ込まれてしまうはかない命なのに、

栄華を極めたソロモンでさえ、この花の一つほどにも着飾ってはいなかったほどに、美しく装ってくだ

さっているではないか。そのように空の鳥と野の花を指示しながら、イエスはこのように語っているの

です。「あなたがたの天の父(神)は、これらのものがみなあなたがたに必要なことはご存知である。

何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる。だ

から、明日のことを思い悩むな。明日のことは明日自らが思い悩む。その日の苦労はその日だけで十分

である」(6:32-34)と。ここに「何よりも、神の国と神の義を求めなさい」と言われています。

パウロが語っている「神は、義において人間世界を裁くべき日をお決めになった」という義は、イエ

スの語っている「何よりも、神の国と神の義を求めなさい」の「神の義」を意味します。パウロは、イ

エスが私たちに何よりも求めなさいと語った神の義において私たちすべてがふるいにかけられる日を、

神が決めたと語っているのです。そして「その裁きは神が定めた方によってなされます。この方を死人

たちの中から甦らせることによって、神は、すべての人に対して保証を提供なさったのです」(31節

、田川訳)と語っているのです。

・つまり、「何よりも、神の国と神の義を求めなさい」と語られたイエスによって、そして十字架の苦

難と死を担われたイエスを神が死者から復活させることによって、そのイエスによによって私たちすべ

ての者がふるいにかけられるというのです。パウロアテネの人々に悔い改めを迫ったのは、そのよう

パウロの信仰からでありました。

・私は、歴史的なイエスの研究に若い時に影響を受けて、イエスの人間としての生き様に倣うというこ

とを大切にしてきました。けれども、パウロは競灰螢鵐5章16節で、「肉によってキリストを知ってい

たとしても、今はそのように知ろうとはしません」と言っています。バルトは、「イエスは存命中に何

をなし給うたか」と問い、イエスを手本とする在り方は、文字の信仰者であって、霊の信仰者ではない

と言っています。そしてイエスを手本とする文字の信仰者は、イエスの生徒であって、イエスの随従者

ではないと。その意味で、パウロは霊の信仰者であって、イエスを主と信じたのだと。「他の人々にと

っては、イエスとは、生徒がきちんと正確に書き取らなければならない文字を板書きする一人の教師で

あった。しかしパウロにとって、イエスとは、その方に結び付けられていることを熱情と内的誠実さに

おいて覚知したところの主で在し給うた」と。「彼は、イエスの言葉の中に、人間的なもの・時間的な

もの・過ぎ去るものを聞いたのではなかった。そうではなくて、文字を書き取らせるのではなく至福と

力を満ち溢れさせるところの、あらゆる時代のすべての人間にとって新しい永遠の神の声を聞いたので

ある」。イエスの生徒ではなく、イエスを主としてイエスに従っていく者は、「もしイエスが私の立場

なら今日何をなし給うかと、あるいは私が彼の思いと彼の流儀を私の基準とするなら、私は何をなさな

ければならないかと問わなければならない」と言うのです。

・そのような意味で、パウロはイエスを主と信じていたのでしょう。このイエスが私たちの主であると

同時に、世界の主でもあるという信仰です。ですから、イエスは十字架の苦難を通して、神の国と神の

義、すなわち神の真実、愛、平和の下にすべての人があることを証言し、神によって復活させられて、

復活の主として今も私たち一人一人を導き給うという信仰に立っていたと言えるでしょう。それゆえに、

パウロは、アテネの人々に、ただ神を知るだけではなく、「神の中に生き、動き、存在している」私た

ちは、神からの問いかけに応えていかなければならないと語ったのです。神は私たちに悔い改めを命じ

ていると。自分自身とこの世の思惑によってではなく、私たちの中心に神とイエスを据えて生きるよう

にと促したのです。

・するとアテネの人々はどのように応答したのでしょうか。32節には「死者の復活ということを聞くと、

ある者はあざ笑い、ある者は、『それについては、また聞かせてもらうことにしよう』と言った」とい

うのです。つまり、アテネの人々は、パウロの宣教をうけいれなかったというのです。いろいろな新し

い知識には興味関心がって、そのような知識を聞いたり話したりして時を過ごすことは好んでいますが

(17:21)、悔い改めを命じる神の促しには、真剣に向かい合おうとはしなかったのです。信じようと

しなかったのです。

・しかし、そのようなアテネの町にも、パウロの宣教を受け入れて、信仰に入った人もいました。アレ

オパゴスの議員ディオニシオとダマリスという女性です。

・さて、アテネでは、それまでの町々でのパウロの宣教活動とは違って、どうしてあまり成果が上がら

なかったのでしょうか。それはアテネの町は、ソクラテスプラトンアリストテレスという古代ギリ

シャの哲学の影響が強い町で、アテネの人々にはそういうギリシャ哲学の考え方の枠組みが非常に強か

ったということではないかと思われます。知の枠組みというか。この使徒言行録の箇所には、エピクロ

ス派とストア派の人たちが登場していますが、エピクロス派は一種の快楽主義、幸福主義です。ストア

派は一種の厳格主義というか、この世の中は一つの理法によって成り立っているという考え方で、それ

を一つ一つ厳格に守ることを大切にしているものです。そのように、その社会に哲学的な考え方にしろ、

確固とした規範を強いところでは、パウロのような福音宣教がその規範によって跳ね返されてしまうの

です。

・これは日本の社会の状況にも同じ面があるように思われます。天皇制国家もそうですし、現生主義・

幸福主義もそうです。

・ですから、日本でもキリスト者は少数者です。これは今後も同じだろうと思います。それでもアテネ

で少数者が信仰に入ったように、福音を語り福音によって生きるときに、必ず応答する人が与えられる

ということに信頼して、私たちは問いかける神に応いる信仰による生を大切に生きていきたいと思います。