船越通信癸隠僑院 。横娃隠看5月25日
・18日の日曜日は、礼拝後第2回ビデオ鑑賞会、平良修牧師「イエスと歩む沖縄」(NHKこころの時代、2013
年12月22日放映)がありました。私は、このビデオ鑑賞会には参加せずに、この日の午後4時から始まる兵庫
教区総会に出かけました。私の裁判支援会からお願いして兵庫教区総会でアッピールをさせていただくため
です。兵庫教区は快く受け入れてくださいましたので、私が行くことになったからです。5月5日(月・祝)
~6日(火・祝)に下関で開かれた西中国教区総会に続いて、二つ目の教区総会でした。アッピールの時間
はわずかでしたが、兵庫教区の場合は、私の戒規免職問題への支援を明確に表明してくださっている教区で
すので、反応は全体的に好意的に受け止めてくださっているという印象を受けました。兵庫教区の教団問安
師は書記の雲然俊美さんでしたが、兵庫教区総会が開催された神戸栄光教会の議長団の席に一番近い来賓席
に彼と一緒に私も座りました。アッピールの時に、「兵庫教区は教団の免職教師である私と教団問安師を来
賓席に対等に座らせてくださり、感謝しています」と申し上げました。また、フロアーからUさんが、北村
さんの支援をしている兵庫教区として、何らかの免職撤回を求める教団への議案を、新しい常置員会に要望
するという発言をしてくださり、新議長はその発言を受け止めることを約束してくださいました。
・兵庫教区総会には30弱の議案が審議されました。議場での意見表明も比較的丁寧に議長団は受け止めて、
議事を進行していました。議場からの発言は、私には大変乱暴なもの、例えば政治的社会的な問題への抗議
などの議案は、教区総会のような場では扱うべきではないというような発言もありましたが、多くの発言は
議案への賛成反対を表明する中で、自己への問いを含んでいて、例え反対の立場の人に対しても誠実な対話
を求めるというものであったように思われました。日曜日の午後4時から月曜日の午後6時半までの兵庫教区
総会を、最初の開会礼拝以外はすべて参加して、19日(月)の午後11時半過ぎに鶴巻に帰ってきました。
・20日(火)は農伝の説教演習に行き、21日(水)は鶴巻で毎月一回行っています個人的な集会がありまし
た。この週は、3月29日に行われた私の裁判支援会の集会と総会の報告を中心に、5月28日、29日に通信10号
と別冊を支援者約1,000名と教団の全教会へ発送する作業を県民センターですることになっていますので、
その準備に時間をとりました。通信の編集レイアウトを担当してくださっているSさんとのメールでのやり
取りで、通信10号と別冊の原稿を完成させました。後は当日その原稿で各2,700部印刷し、封筒に入れて発
送するわけです。今回は県民センターの近くで紙を購入していたお店がなくなって、紅葉坂教会にお願い
して紙を取り寄せてもらい、当日自動車で県民センターに運ぶことになっています。紙を船越教会で取り
寄せ、この発送作業は時間をかけて船越教会でしようとも思ったのですが、紙折り機がありませので、通
信10号16頁建てA3、4枚、別冊8頁建てA3、2枚を折ることを考えますと、膨大な時間がかかりますので、
今にまで通り2台の紙折り機がある県民センターですることになりました。そのために紅葉坂教会に便宜
を図ってもらうことになりました。感謝しています。さて裁判の方はまだ最高裁の結果が出ていませんが、
今回発行の通信10号と別冊の内容からもわかりますように、私の問題は今後教団内での運動へより強くシ
フトしていくことになります。私の免職撤回と聖餐議論の場の設定を求めるこの支援会の運動を応援して
くれている方々と協力しながら、現在の日本基督教団の執行部の姿勢を問い、戦争責任の上にきちっと立
つ合同教会としての日本基督教団の形成に力を注いでいきたいと願っています。
・最近必要があってバルトの説教集を、忙しくて読めない日もありますが、原則として一日一つずつ読ん
でいます。バルトの説教は、一つがA5版の本で一頁、50字×18行で、約20頁になるものばかりで、
一つの論文を読んでいるような感じです。最近読んだクリスマスの説教の中の一節を下記に紹介します。
「さて、キリストは生まれ給うた! という降誕節の使信によって、われわれに対する神の愛の事実にわ
れわれが再び気づいた時、そこから何が生じてくるべきか。神はその独り子を世にお遣わしになったとい
うことから、何がつくりだされたのか。例えば人は言うであろう、一つの新しい、より良い宗教がつくり
出されたし、キリスト教がこの世に現れ、キリスト教会が建てられて、ユダヤ人と異邦人がこれまでして
きたよりもっと良い方法で神に仕えることがわれわれに可能になった、と。その通り、それはむろん間違
いではない。しかし、それらはどれも、主要なことではない。宗教、キリスト教、教会、これらはみな、
われわれがまさにそこから救われなければならない人間的なもの、余りにも人間的なものの臭いがまだひ
どくする。そうではない、降誕節の使信における本質的なものとは、人間にとってたくさんの古い宗教に
もう一つの新しい宗教が付け加えられたということではない。宗教、キリスト教、キリスト教会と呼ばれ
るものによって、われわれがわれわれの人間的本質の不幸から解放されることはない。
テキストは何と言っているか。その方によって、わたしたちが生きるようになるためです! それはは
るかに大きくはるかに美しい。それは今挙げた宗教とかキリスト教とかキリスト教会とは違って、外面的
なものでも、見せかけのもので、幾重にも空想されたものでもない。それは事実と真理である。生きる!
生きるとは何か。・・・生きるとは、われわれの不満足な痛ましい内的状態からの救済である。生きる
とは、われわれがそれによって苦しんでいる桎梏からの解放である。たんなる見かけだけのではない、現
実的な解放である。・・・神の愛についての降誕節の使信は、もしわれわれがそれを受け入れるのなら、
・・・われわれの最も内なる生の中への神の力強い介入である。・・・神の愛はわれわれに示されるだけ
ではない。それはわれわれの内に働く。生とは完全性ではない。・・・われわれの知っている生は、いず
れにせよ、闘いであり労働であり苦しみである」。