なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

黙想と祈りの夕べ通信(419)復刻版

 黙想と祈りの夕べ通信(419)復刻版を掲載します。2007年10月のものです。この黙想と祈りの

夕べ通信の時期から、私の免職問題が実質的にきぃおう団の中ではじまっていきます。


         黙想と祈りの夕べ通信(419[-01]2007・10・7発行)復刻版


 私の「北村慈郎教師に教師退任勧告を行う件」という、来る常議員会の議題が送られてきてから、急遽教

団有志のメーリングリストが立ち上げられ、そこで私の問題以外にも活発なやり取りがなされています。そ

の一つに、今私が入門講座で用いています富田正樹さんの『信じる気持ち』というキリスト教入門書に対す

カトリックの禁書を思わせるパッシングがあります。山北議長がこの本を出版した教団出版局に手紙を出

して、出版指し止め回収を命じた件しかり(これはさすがに山北議長の思い通りにはならなかった)。最近

は連合長老会から本書は日本基督教団信仰告白に著しく逸脱するものだという抗議が寄せられているようで

す。そのことに関してIさんという北海道の方が、カール・バルト『教義学要綱』の「信仰とは告白を意味す

る」という箇所を紹介しています。信仰告白とは何かについての大切な指摘ですので、一部引用させていた

だきます。

【・・・告白というものが、ただ「教会の領域」においてだけ知られうるような、またそこでだけ知られねばな

らぬような、信仰の事柄だなどと考えぬように、われわれは用心したいと思う。また告白における問題が高々

この教会の領域を示したり、或いはこれを多少世の中に拡張したりすることだなどと、考えぬように用心し

よう。教会の領域は、ちょうど教会がすでに外形的に、どこかの村や町の中に、学校や映画館や停車場と並

んで建っているのと同じように、世の中に在るのである。教会の言葉が自己目的であろうなどとは、不可能

な願いである。教会は世のために存在しなければならないのだということ、光は暗黒に照るのだということ

が、明らかにされなければならない。キリストが来たり給うたのは仕えられるためではなかったように、キ

リスト者にとっても、自分が自分自身のために存在しているかのように、その信仰の中にいるということは、

ふさわしいことではない。

 ということは、しかし次のようなことを意味する。すなわち、信仰というものは、このように信仰と認識

を公共化する過程において、必然的に一定のこの世的な態度決定を生むのである。告白が真剣で明白な場合

には、その告白は、原則的には、街上の男女甲氏乙氏、どのような人の言葉にも、翻訳されなければならな

い。すなわち、聖書を読み慣れず・讃美歌を歌い慣れず・全然違った用語を持ち・まったく違った関心領域

を持った人々の言葉に、翻訳されなければならない。これが、キリストがその弟子たちを遣わし給うた世で

あり、われわれ皆も生きている世である。われわれの中誰一人として、単にキリスト者である者はない。わ

れわれは皆同時に、自らこの世の一片なのである。

 したがって、問題は、また必然的に、この世的な態度決定に関係する。われわれの弁明をこの領域へと翻

訳することに関係する。なぜかと言えば、信仰の告白は、われわれすべての者が生きている生活に適用され

ることによって、実現されることを欲するからである。日常生活の理論的・実際的諸問題に包まれたわれわ

れの現実的存在の諸課題に、適用されることによって、実現されることを欲するからである。われわれの信

仰がリアルなものである場合には、その信仰の告白は、われわれの生活の中に喰いこまなければならない。

・・・・・キリスト教会の本質からすれば、むしろただ一つのことが、あるだけである。すなわち、告白がこの世

の領域の中にも知られるということである。

・・・私は、一人一人のキリスト者が、その信仰によって、次の事実を明らかに知ってくれることを願う。すな

わち、その人の信仰が住み心地のよい蝸牛(かたつむり)の殻であって、しかも、その信仰が、自分の同胞

の生活を顧慮せぬ信仰である限りは――したがって、そのキリスト者が二元論の中に生きている限りは、彼

はまだ本当に信仰していないのである。そのような蝸牛の殻は、何ら好ましい宿り家ではない。それは、住

み良い場所ではない。人間は、一つの全体であって、ただそのような全体としてだけ、存在することができ

るのである。・・・人が大いに力強い言葉で語り、また告白しても、愛を持たないならば何になろう。告白と

は、生の告白である。信仰する人は、「自腹を切る」(payer de sa personne)ように召されているのであ

る。これが、そこに一切のものが掛けらるべき釘である。】
         


     「最も人間的で最も神的な仕種」        10月7日



 エマオへの途上でイエスが一緒に歩かれた二人の弟子たちは、イエスがパンを割かれ

た時イエスであることが分かりました。パンを割くということ以上に、一般的で日常的

な仕種が何かあるでしょうか。それは、あらゆる人間の仕種の中で、最も人間的なもの

でしょう。それはもてなしの仕種であり、友情、思いやり、一緒にいたいという願いの

仕種です。パンを一つ取って、祝福し、割いて食卓を囲んでいる人々に与えることは、

一致、交わり、平和を表します。イエスがそうなさる時、イエスは最も日常的でありな

がら、最も非日常的なことをなさっておられます。それは最も人間らしい仕種であり、

最も神らしいなさり方でもあります。

 私たちの間にキリストがおられるのはどのようにして分かるのでしょう。それは、こ

の最も日常的で、最も人間的な仕種によります。それは大いなる神秘です。

 神が一番身近に感じられる時は、私たちが最も人間らしい時といえましょう。


                 (ヘンリ・J・M・ナウエン『今日のパン、明日の糧』より)