なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

黙想と祈りの夕べ通信(452)復刻版

 黙想と祈りの夕べ通信(452)復刻版を掲載します。

 昨日は、船越教会の礼拝は5人で少し寂しかったですが、その中の一人は初めての人でした。と言っても、私

の姉の従妹の子です。田浦に住んでいますので、所属する教会はあるのですが、この日は予告なしに礼拝に来ま

した。さてその後教会の人に車で送ってもらい、横浜港南台教会の牧師就任式に出席しました。その帰りがけに、

おそらく横浜港南台教会の方ではないかと思いますが、一人のご婦人から「先生のブログを読んでいます」と、

声をかけられました。ある面では七面倒くさいに違いない、文章ばかりのぼくのブログを、思わぬ人が読んでい

てくれることを知って、小さな何かを共有してくれている人がいると思えて、大変うれしく思いました。

 昨日は午後6時半から、私の支援会の集まりがあり、最高裁上告棄却後の対応について話し合いました。支援

会関係者(事務局、神奈川世話人、訴訟対策委員)ほぼ全員18名に、紅葉坂教会関係者他12名、計30名の出席

者がありました。会議も活発な意見が飛び交い、今後の対応について、大方の方向性を確認できました。裁判は

終わりましたが、何だか今まで以上にヒートアップしている感じで、私にとっても大変ありがたいことです。

 

        黙想と祈りの夕べ通信(452[-34]2008・5・25発行)復刻版


 5月21日の黙想と祈りの夕べの参加者は二人でした。もう一人の方はこの会がはじまってから約10年間ほと

んど皆勤出席しておられる方でした。分かち合いでは、その方とお話をして、いつものような発言はありま

せんでした。

 私はいつも神信仰には、神の眼差しを通して自分自身を捉え直す契機があるということをお話してきまし

た。自己相対化ということです。私たち人間は、その人が与えられた資質という賜物とその人が歩んできた

歴史、家族やその時代の社会によって自己形成をしていくものですが、そういう人間としての営みのなかで

神信仰は私たちに何をもたらすのでしょうか。その一つが自己相対化ではないかと、私は思っています。自

分自身のことを振り返って見ても、私は高校3年生のクリスマスに洗礼を受けて、その頃から自分の世界の

中に神・イエス・聖書・キリスト教・教会というものが対話の相手としてはっきりと位置づくようになりま

した。特にイエスの存在は、時と共に私の世界の中で大変大きな存在になってきています。イエスの存在と

言っても、福音書を読んだり、イエスについて書かれた書物を読んだり、そういう蓄積の中での自分の想像

によるイエスのイメージですが、そのイエスという鏡から自分を見直してみることが、私の言う自己相対化

です。もちろん自己相対化は、それだけではなく、いろいろなことを契機にして私たちの中で行われていま

す。たとえば友人を通して自分が自己相対化されるということもあるでしょう。さまざま書物や歴史的人物

によっても起こりえるでしょう。それらを否定するものではありませんが、それらとは別に、上記のような

神信仰による自己相対化があり得るということです。

 神信仰は、そういう反省的契機になるだけではなく、積極的に人を前へと押し出すエネルギーともなり得

ます。特に敬虔な信仰は時として自己満足的な行動へと人を誘うこともあり得ます。そしてそのような行動

は、他者にとっては善意の押し売りのように感じられることもしばしばです。素朴で、真面目で、頭よりも

体が先に動く人には特にそのような傾向が顕著に見られます。そのことが決してマイナスというわけではあ

りませんが、神の働きかけは信じる者にも信じない者にも与えられているわけですから、私が大切にしたい

ということは、そのような神の働きかけを信じ、自分のなすべきことをしていくということなのです。過剰

な行動でもなく、無関心や怠惰でもなく、他者への抑圧という限界を超えない他者を愛する行動こそ、私た

ち信仰者にとっては、「己の如くあなたの隣人を愛しなさい」というイエスの教えが求めているものではな

いでしょうか。

 21日の黙想と祈りの夕べでは、お話をした方から上記のような私の信仰理解の影響によって随分自分が変

わったと言われました。黙想と祈りの夕べの翌日にキリスト教入門講座がありました。その時には、別の方

から私は牧師としては変わっているそうで、カリスマはなく、哲学者のようだと言われました。この方の言

われるカリスマ性とは、多分牧師という宗教家に感じられる宗教性のようなものではないかと思います。私

はただの人として振舞っていますし、私は「もし神がいらっしゃるなら、こういうことではないでしょうか」

という言い回しを好んで使っています。私は神の使者のように「神がいるのだから、こうなのだ」という言

い回しはほとんどしません。後者は自分の信仰理解に人を引き入れるときに用いる言い回しのように私には

思えます。しかし、前者は自分の信仰理解はこうだけれども、どうでしょうかと聞き手に問いかけているの

です。私は依存関係による一心同体的な群れになるのを好みませんし、信仰における自立と共生を求めてい

きたいと願っているからです。     


         「イエスの柔和さ」         5月25日


 祝福された方、イエスは柔和な方です。あらゆる形の偽善を熱心にしかも厳しく批判し、欺き、あやつり、

抑圧をおそれず非難しても、イエスの心は柔和な心でした。イエスは傷ついた葦を折ることなく、またくす

ぶる灯心を消すこともありません(マタイ12:20)。人々の苦しみに応え、傷を癒し、臆する者に勇気を与

えられます。

 人々はその言葉のすべてをもって、貧しい人々に福音を、目の見えない人に視力を、捕らわれている人に

解放をもたらすために来られました(ルカ4:18-19)。そしてこのような方法で神の計り知ることの出来ない

憐れみを開き示してくださいます。イエスに従うものとして、私たちは同じ柔和さへと呼ばれています。


                      (ヘンリ・J・M・ナウエン『今日のパン、明日の糧』より)