なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

黙想と祈りの夕べ通信(381)復刻版

 黙想と祈りの夕べ通信(381)復刻版を掲載します。2007年1月のものです。

 昨日「紅葉坂教会2003年ー2013年」という紅葉坂教会10年の記録をいただきました。200

3年から2011年までは、私が在任した期間ですので、この10年史の内容は、ほぼ私の在任のときの

ものです。教師退任勧告・免職問題をはじめ、この10年史で私の紅葉坂教会16年間在任期間の後半8年間

を改めて振り返ってみますと、文字どおり激動そのものだったと思えてきます。内心、自分自身によく

やったね、と言いたい気持ちになりました。


      黙想と祈りの夕べ通信(381[-16]2007・1・14発行)復刻版


 先日教区の常置委員会で同性愛者差別発言がありました。何れ常置委員会でも問題にされていくでしょ

うが、どういう形の差別発言かと言いますと、聖書では同性愛が厳しく諌められているからという発言で

す。これは8年前位に教団総会で配布されたという(私は出席していないので見ていないが)同性愛を否

定する聖書箇所に基づいて同性愛者の教師は認められないとした大住文書と同じです。常置委員会でその

方が挙げた聖書箇所はローマの信徒への手紙1章26-28節です。「それで、神は彼らを恥ずべき情欲にまか

せられました。女は自然の関係を自然にもとるものに変え、同じく男も、女との自然の関係を捨てて、互

いに情欲を燃やし、男どうしで恥ずべきことを行い、その迷った行いの当然の報いを受けています。彼ら

は神を認めようとしなかったので、神は彼らを無価値な思いに渡され、そのため、彼らはしてはならない

ことをするようになりました」です。ここで記されている内容を、現代の同性愛者に適用するというのは

随分荒っぽい聖書解釈ですが、ある意味で逐語霊感説(聖書の書かれた言葉が一字一句神の言葉であり、

権威があるという聖書解釈)そのものの解釈を、発言者は披瀝しました。何人かの人が制止したにもかか

わらず、その制止を抑えて雄弁にその方は語りました。その後あなたの言ったことは同性愛者差別です

よ、というこれも何人かの人の指摘にも、その方は殆ど全く耳をかしませんでした。しかも8年前に同性

愛者差別を受けたご本人が隣にいて、その方も制止したにも拘らずです。重い空気のまま、常置委員会は

既に午後10時を大分過ぎていましたので、この問題は何れ常置委員会できちっと話し合わなければならな

いということを確認して散会しました。

 私は翌日水曜日の聖書研究で、聖書の読み方と私たちが他者と共に生きていく時に必要と思われる関係

性のあり方について、当日の聖書箇所サムエル記上27章に触れる前にお話しました。聖書の読み方につい

ては、個人的にはどんな読み方をしてもかまわないけれども、自分の聖書の読みを絶対化しないことが重

要ではないかと、私は言いました。信仰は超越者である神=イエス(イエスの信じた神)との関係そのも

のであって、その関係の中で言語化されたものは、教義であっても信仰告白であっても全て相対的なもの

で、神=イエスそのものではありません。言語化されたものを神=イエスに等しいものとする錯誤が、信

仰による他者への抑圧を生み出すのではないでしょうか。そういう信仰はすべてイデオロギーであって、

信仰そのものではないのです。信仰は関係そのものですから。ですから聖書の言葉を神=イエスそのもの

のように信じる信仰はイデオロギーに過ぎず、しばしば人を傷つける言葉として機能していくのです。関

係のあり方については、自己の自己に対する関係、社会的な関係、一対一の対の関係といように、一人の

人間が生きていく時には三つの位相の異なる関係性を引き受けていくということを自覚しておくことが重

要です。自分の中で何を考えようが自由ですが、そこでの自己幻想(自分の考え)を社会的な関係や対の

関係に広げて行く場合には、その自己幻想は当然共同幻想、対幻想との絡みが生じます。自己幻想が共同

幻想や対幻想に対立することはあり得るわけです。私たちの課題は、自己の自己に対する関係でも共同の

関係でも対の関係でも、それぞれにおける解放と自由な関係をどのように持ちうるかではないでしょう

か。そのことにおいてイエスは私たちの道であり真理であり命であるのではないでしょうか。