なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

黙想と祈りの夕べ通信(380)復刻版

 黙想と祈りの夕べ通信(380)復刻版を掲載します。2007年1月のものです。


        黙想と祈りの夕べ通信(380[-15]2007・1・7発行)復刻版


 新年あけましておめでとうございます。皆様のこの一年の歩みの上に主の導きをお祈りいたします。

 昨年の暮れに四年前の年末に突然召されたY牧師の記念会がありました。Yさんには2冊の説教集があり

ます。私はその2冊の説教集を読んで発題するように頼まれたということもあり、記念会に参加しまし

た。私の発題ともう一人の方のYさんの思い出の話があり、1時間半ほどの話し合いをしました。その後S

さんの「パレスチナ史断章」という本について著者のSさんからお話があり、懇談の時を持ちました。Sさ

んは、日本基督教会の神学校から東京神学大学に入り、東神大闘争に関わりました。東神大を追われてか

ら(ご自身は多分自分から東神大に見切りをつけたとおっしゃるだろうが)予備校の講師をしながら、百

姓屋で農業を有志の方々として来られた方です。その間旧約をずっと学び、ある所で教え、二、三の集会

の日曜礼拝の説教もしています。その本の「あとがき」でSさんはこのように書いています。

 「生活の場の大半を田畑に置いて、百姓に身を託している者がこうした文を書いていることはおこがま

しく恥ずかしいことなのだと認識している。・・・そんな思いにある者を何とか支えてきたものは、『聖書

を読むことはこんなにも〈おもしろい〉ことなのか』というところにある。これだけ言うときざっぽく聞

こえてしまい、少し違うのでどうしても一定程度説明をしなくてはなるまい。これまでたどたどしく『聖

書学』の周辺を学び続けてこれたのは〈教師〉がいたからである。この〈教師〉は俗にいう〈反面教師〉

のことである。キリスト教会の中にあっては反面教師に事欠かない。

 わけても東京神学大学という牧師を養成する神学校にいたときに、教授会と学長が昨日まで親しく教え

ていた学生たちを警察に売り渡す現場を見る貴重な体験をした。たまたま教授たちが政治的な誤判断をし

ただけで、彼らの語る内容(福音)の正しいことには変わらないのだ、といった〈正統派擁護〉を耳にし

たことがある。そうではなく、それまで彼らの語ってきたそのものがどこかで間違っているのだ、と考え

てみることで目の前がはっきりしていきた。このことに気づくこと(目からうろこが落ちる)は、当然な

がらこの後、押しつぶされそうな体制の重みに耐えながら、自らが納得できるもの(どこがどのように間

違っているのか、どうしてそうなってしまうのか、それらを言葉にすることから、さらにそれを越える認

識の獲得)を遅々としてでも内に創らなくてはならないことを意味する。出来なければ死か自暴自棄か自

らにウソをついて生きなければならない。その学校ではいまも相変わらず〈まことの福音〉を教えている

という。それ以降、筆者にとってはキリスト教は検証すべきものとなった。自らがかつてそれに乗った宗

教性への自己批判の作業である。・・・・・

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 東神大闘争に具現化した教会と宗教に対する問題を身に引き受け、闘うことでこれまで生き続けてきた

者たちがいる(この過程で数人の自殺者を出していることを決して忘れない)。それらの『生と死』の中

から、〈まことの福音〉なる『宗教は人を殺す』ことをしっかり認識させられたことを記しておきた

い。」

 Sさんの風貌を見る限り、少しインテリの「百姓」という感じですが、凄い人だと思います。