なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

黙想と祈りの夕べ通信(382)復刻版

 黙想と祈りの夕べ通信(382)復刻版を掲載します。2007年1月のものです。

 下記に阪神淡路大震災のことが書いてありますが、3年経った東日本大震災でも、被災によって

より苦しんでいるのは弱い立場の人たちではないのかと思わされています。今年もゴールデンウイ

ークに、神奈川教区では3回目の福島からのこどもたち、家族の一時保養プログラム、「リフレッ

シュ@かながわ!」が行われます。


        黙想と祈りの夕べ通信(382[-17]2007・1・21発行)復刻版


 今日は阪神淡路大震災が12年前にあった日です。いくつか感じていることを話したいと思いま

す。一つは、これはIさんも深く関わったことですが、震災で亡くなった五百数十人の子どもたち

の死を覚えて、コンサートが開かれてきたことです。今年もしているかも知れませんが、大地震

ような大きな災害が起きると、弱い立場のお年寄りや子どもに被害のしわ寄せが来てしまうわけで

す。一人一人の子どもたちの死を記憶していくということは、本当に大切なことのように思いま

す。そういう発想が震災後の神戸にあったということは、素晴らしいことだと思います。また、今

でも復興住宅でのお年寄りの孤独死が、震災のない地域と比べると、その率が高いと言われていま

す。一人一人のお年寄りの方々にはあの大震災の経験が、ある種のトラウマとしてその後の生活に

大きな影響を与えたことでしょう。まだ若くてこれからの人生の人であれば、震災は決して忘れら

れない苦しい体験であったとしても、これら創造して行く自分たちの生活に目を向けることがで

き、未来志向になることができるかも知れません。けれどもお年寄りの方々の場合は、震災の記憶

が重く、なかなか未来志向にはなれないのではないでしょうか。もう一つ阪神淡路大震災を体験し

た兵庫教区がその被害が最も大きかった長田地区に活動センターを教区で設置し、その後の国内外

で起きた大きな災害の被災地に救援活動を続けているということは、大変素晴らしいことだと思い

ます。当紅葉坂教会も最初の5年間は毎年30万円、その後5万円の献金を継続して長田活動センター

に捧げています。2年前に起こった中越地震の時も、阪神淡路大震災の時の「地域の復興なくして

教会の復興もない」というスローガンを生かして、ただ教会堂や牧師館の再建だけではなく、地域

の被災者への救援活動に力を注ぐべきではないかという主旨の発言を私は常議員会でしました。し

かし、私の発言は取り上げられず中越地震献金は当初のものを除いて教会堂と牧師館の再建献金

ということになり、現在でも1億5千万円の目標が達成できず続いています。そのような教団とは違

って、聖公会では被災者救援活動のためにプロジェクトを組んで中越に人を送って活動を続けてい

ます。そういう形の救援活動を教団として出来ないのが、今の教団のダメなところです。12年目の

阪神淡路大震災の日を迎えて、感じたことをお話させてもらいました。

 上記の私の発言に続いて、一人の方の発言がありました。私も今日は一日雨も降っていたので家

で静にしていて、12年目の阪神淡路大震災関連のテレビで、阪神淡路大震災の経験者が市民活動と

して中越で今も救援活動を続けている人のことを観た。その話をしようと思ったが、先日の黙想と

祈りの夕べ通信に同性愛者差別発言のことが書かれているので、その話をしたい。教団総会で起き

(教団総会には自分も出ていた)、教区の常置委員会でも同性愛者差別発言があったことを知って

本当に悲しく思った。しかし、報告を聞いても間接的でよく分からなかったので、たまたま婦人委

員会で発言者の連れ合いと一緒だったので、本人と会って話す機会を作ってもらい、日曜日の夕方

伺って話してきた。ご本人は自分がローマの信徒への手紙1章26節以下を自分が常置委員会で朗読

したのは、同性愛者や性的少数者関連の議案の審議において、聖書にこういう箇所があることを踏

まえてなされるべきであるということを言いたいためで、自分も差別はいけないと思っていると言

われた。また、自分が聖書を朗読していたときに、横からそれを止めようとしたので、かっとなっ

たと。聖書のみ言葉は絶対である。黙示録の最後にある通り聖書のみ言葉は加えても減らしてもい

けないと。私は聖書も歴史的な文書ではないかと言ったが、それは認めなかった。ただ実際に直接

話すことによって、その方の意図が分かりよかった。聖書の読み方にはいろいろあり、それぞれ批

判し合うことは大切だが、聖書の読み方によってその人を拒否してはならないと思う。憶測で判断

してしまうのではなく、直接話せてよかったと思う。違った意見でも、真摯に向かい合うことが大

切だと思った。これからも出来れば聖書を共に読む機会があればと願う。聖書箇所によっては生か

されることがあり、逆に命がそがれることもあるので、聖書をどう読むかは本当に大切である。議

員提案として上記の議案を教区総会に出すなら、それでよいということだった。

 続いてもう一人の方の発言がありました。聖書の言葉は人を傷つけることがあると、前の人が言

ったが、そうだと自分も思う。聖書の言葉がどのように用いられるかによって、人に与えるものが

変わるので、そのことを冷静に受け止める必要があると思う。今日の聖書朗読箇所のヨハネ福音書

2章のカナの婚礼の記事は、前々から不思議だなあと思って読んでいる。よいものを最後まで取っ

ておくというところが、この箇所が何を言うのかは別として、自分には気持よい。神はいろいろ困

ることがあるけれども、よいものをとっておいて下さる方なのかもしれないと思った。よいものが

先にある。そこに希望を感じた。ギザギザした尖った心が静まる感じで、ありがたいと思う。