なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

黙想と祈りの夕べ通信(457)復刻版

黙想と祈りの夕べ通信(457)復刻版を掲載します。2008年6月のものです。昨日掲載しました船

越通信にも記るしましたように、辺野古では新基地建設の工事がはじまっていると言われます。辺野古に基

地をつくらせてはならないという長い闘いが、また新しい段階に入ったことを意味すると思われます。辺野

古では、ますます国家権力を盾にした新基地建設の策動が強められていくと思われますが、非暴力による新

基地建設反対の運動に多くの人がその人ができることで参与していくことができますように願うものです。

私も、今自分の教団における戒規免職処分のことで力を注がなければなりませんが、できるだけ国会前の

座り込みに参加していきたいと思っています。

 

        黙想と祈りの夕べ通信(457[-39]2008・6・29発行)復刻版


 去る6月21日の土曜日に清水ヶ丘教会で神奈川教区総会が開かれました。そこで問安使の山北総会議長の挨

拶と質疑が行われました。山北議長は1967年のイースターに当時の鈴木正久議長名で公表されました「戦責

告白」以降の40年間をヴァイゼッカーの言葉を用いて「荒野の40年」と規定して、戦責告白、万博・東神大

問題、教師検定試験問題、合同のとらえなおしなどを否定的に評価しました。歴史をどう見るかはその人の

現在の生き方と深く関わることではないかと思います。山北議長はこの40年間の歴史から学ぶというのでは

なく、むしろこの40年間の教団の歴史が伝道の衰退を招いたと断定しているかのようです。随分荒っぽい歴

史認識ではないかと思います。歴史から聞こうという姿勢が全く感じられません。自分の価値判断で40年の

教団の歴史を「荒野の40年」として切り捨てようとしているとしか思えません。一方関田寛雄先生は、「教

団総会に『聖餐のあり方について慎重かつ十分に論議する場を教団内に設置する件』を議案として提出する

件」の提案者として提案理由を述べられました。その中で山北議長が「荒野の40年」と規定した40年はまさ

に教団の諸教会にとって教会とは何かを考えるために必要な40年だったのではないかと、山北議長とは対照

的な歴史認識を披瀝しました。このように歴史認識が全く相反する立場の人たちによって現在の教団が構成

されていることを改めて思わされました。

 上記の私の発言に続いて、一人の方の発言がありました。今朝ラジオをかけたらキリストという言葉が耳

に入った。カネミツさんという宗教の話の相手をする人と話していたのは、名前は聞けなかったが牧師さん

だったのではないか。そのお話は礼拝の説教というか、キリスト教についてよく分かるお話で終わりまで聞

くことが出来た。分かり易い話で聖霊という言葉がよくでてきた。今のキリスト教は学問的であり、本当は

霊的祈りが強調されなければならないと。

 続けて、もうひとりの人の発言がありました。今日も国会前の座り込みに行ってきた。この座り込みは3

年前から続いているが、座り込みの場所に始まってから今日で辺野古は何日、国会前は何日と表示している。

すでに国会前も1400日を過ぎている。たまたまここを通りかかった女性が いて、座り込みをしている私たち

にいろいろと話しかけてきた。辺野古淵野辺と読 みそうになったが、これは何ですかと、その方が問うて

きた。何故ここで座 り込んでいるかという話をした。その人は、こんなに何日もして、何か変るのですかと

言われた。ヘリパット建設のボーリング調査を阻止できたこともあるんですよと話した。ま た、辺野古

新しい基地建設計画ができて、それを阻止するために座り込みを続けて いることも話した。阿波根昌鴻さん

のことも話した。非暴力で私たちは戦わない話もした。その人は、色々な話をしているうちに、考え方が違

うのでこれ以上いると喧嘩しそうなのでと言って、カンパして 帰って行った。彼女は長い時間を使っても事

は変わらないのではと思ったようだ。これを長いと感じるか短いと感 じるか。彼女自身の言葉からすると、

この時間は無駄だと思えるかもしれない。しか し、神の長い時間からすれば、私たちの生は点に過ぎないの

ではないか。時間の感覚としては短いが終わりの無い長い時間になるかもしれない。それでもずっとやるし

かないと思う。今国会は休会だが他にも何人か通りがかりの人が声を掛けてきて色々聞いてくれる。2,3人

で行っている座り込み も意味があるのだなあーと思った。これからも自分自身の問題として改めて担い続

けて いきたいと思わされた。

           
        「十字架を背負う」       6月29日


 イエスは言われました。「わたしについて来たい者は・・・自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」

(マタイ16:24)。イエスは「十字架を作りなさい」とも「十字架を探しなさい」ともおっしゃいませんでし

た。私たちの誰もが負うべき十字架をもっています。作ったり、探したりする必要はありません。私たちの

十字架は十分重たいのです。それでも、それを進んで自分の十字架として認め、背負う意志があるでしょうか。

 勉強が不得意であったり、障害を負っていたり、あるいは鬱状態で苦しんでいたり、家庭でいざこざがあ

ったり、暴力や虐待の犠牲者であったり、これらの内のどれ一つとして、私たちが選んだものはありません。

しかし、これらこそ私たちの十字架です。これらを無視し、拒絶し、退け、憎むことも出来ます。けれども、

これらの十字架を背負い、その十字架と共にイエスに従うことも出来るのです。

 
                    (ヘンリ・J・M・ナウエン『今日のパン、明日の糧』より)