なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

黙想と祈りの夕べ通信(531)復刻版

 黙想と祈りの夕べ通信(531)復刻版を掲載します。2009年11月のものです。

 これから教団総会に出かけます。心は重いのですが・・・。このブログは明日、明後日の2日間お

休みします。



        黙想と祈りの夕べ通信(531[Ⅺ-09]2009・11・29発行)復刻版


 教団・教区に関わるようになってからぼくもそろそろ8年近くなります。特に当時の山里沖縄教区

議長が、「名称変更議案」等の合同のとらえなおし関連議案が全て審議未了廃案になって、「教団

との間に距離を置く」ことになった2002年秋の第33/18回教団総会に総会議員となって出るよう

になってから、教団有志の会やかながわ明日の教団を考える会などを通して、多くの他教会の信徒と

教職の方々と出会う機会ができました。そこで感じていることの一つは、特に教団・教区や社会的な

問題に関わっている信徒の方の中に、自分の出席している教会との関係に悩む人が少なくないという

ことです。その根底には教会と社会における信徒の日常生活での生き方との間に、しっくりいかない

ものがあるように思われます。特に社会的な関心を強く持ち、何らかの社会的な働きに関わっている

方の場合、礼拝で語られる説教や教会の活動に問題を感じてしまうのではないかと思われます。教会

と自分の日常の生活とを二元的に割り切ることもできないので、もやもやした気持ちが生まれ、教会

から足が遠のくようになっていくのでしょう。私は、これは一体何だろうかということを、ずっと考

えてきました。富田正樹さんは、『信じる気持ち』で自分の合った教会に行くように進めています。

しかし、新しく教会に行く人ならともかく、洗礼を受けたり、転会してその教会の教会員になってい

る人が、自分の教会は居心地が悪くなったから、他の自分に合う教会に変わることは、そう簡単には

できないのではないでしょうか。

この問題は、随分前から指摘されてきた教会生活と日常生活が分離し二元論になっているキリスト者

が多いのではないかという問題にも通じます。この場合は、教会生活と日常生活を最初から分離して、

割り切っているので、もやもやした気持ちが起きて、教会から遠のくことはないかも知れませんが、

上記と同じ問題ではないでしょうか。教会生活と日常生活とが分離しないで、しかも社会の中で平和

や人権の問題に取り組んでいる人も、教会から押し出されてその取り組みができるような在り方がど

うしたら可能なのかでしょうか。教団教区に関わるようになって、ますますその問いが重くなってい

ます。

 上記の私の発言に続いて、一人の方からの発言がありました。今のお話のように、社会的な活動を

している人が教会では浮いてしまうことがある。また聖書はいいが、組織としての教会はいやだとい

う人もある。そういう教会批判に対して、役員会が教会を護るという姿勢をもってしまった教会の例

もある。はがゆいが、教会にはそういう問題があるのも事実である。先日神奈川教区の社会委員会の

各小委員会とその他関係特別委員会の活動説明会(オリエンテーション)があった。連休中というこ

ともあり、参加者は少なかった。各委員会の委員の中にはダブっている人もある。自分としては参加

してよかった。数年前から神奈川教区の社会委員会の様々な催しに出て学ばせていいただいているが、

各集会への参加者はどの集会も同じ人で固定化していて、教理を重んじる立場の教会の人は出て来な

い傾向がある。ただ先日行われた教区のオリエンテーションでは「寿に学ぶ」という現場研修だった

が、そこには教理を重んじる教会の人も出席していた。社会の問題は教会の問題でもある。教理を大

事にする人も教会では牧会を大事にしているのだから、牧会には当然現代の社会の問題が反映してい

るわけなので、社会の問題にも関心を持ってもらいたいと思う。社会委員会の働きを広げていけたら

と思う。


        「人生、種を蒔く時」       11月29日


 私たちの地上での短い人生は、種を蒔く時です。もし死者の復活がないなら、私たちが地上で生き

たすべてのことは無に帰してしまいます。私たちの人生の喜び、苦しみのすべてがむなしく、滅んで

いく肉と骨と一緒に地中に消えていくとしたら、私たちを無条件に愛してくださる神を信じることが

出来るでしょうか。神は永遠に私たちを無条件に愛して下さいます。ですから神は、み子であり私た

ちの救い主であるイエスが私たちの前に人としての姿を現されたのと同じ私たちの体が、最終的に破

壊され、なくなってしまうのを許されるはずがありません。

 そうではなく、地上での生は、復活の体の種が蒔かれる時です。パウロが言っています。「蒔かれ

る時は朽ちるものでも、朽ちないものに復活し、蒔かれる時は卑しいものでも、輝かしいものに復活

し、蒔かれる時には弱いものでも、力強いものに復活するのです。自然のいのちの体があるのですか

ら、霊の体もあるわけです」(1コリント15:42-44)。私たちが体にあって生きることの中には、何

一つ無駄になることはないというすばらしい真理を知ることで、あらゆる瞬間を永遠に向けての種と

して生きるようにと招かれているのです。 


                (ヘンリ・J・M・ナウエン『今日のパン、明日の糧』より)