なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

黙想と祈りの夕べ通信(532)復刻版

 黙想と祈りの夕べ通信(532)復刻版を掲載します。2009年12月のものです。

 昨日まで3日間(28日~30日)第39/24回教団総会が開催されました。昨日の最後のセッションで、

神奈川教区と大阪教区から総会決議として出ている私の戒規免職処分撤回と聖餐について論議する場の設定

を求める二つの議案が上程されるかと思って見守っていましたところ、議長はこの二つの議案は教憲教規違

反の議案なので議案とすることはできませんと言って、葬り去り、次に進めていきました。あっけにとられ

ている間に、傍聴席からはおかしいという声が上がりましたが、そのまま議事が進められて兵庫教区から出

されていた「合同のとらえなおし」の議案の趣旨説明になり、採決になりましたが、議場はこの議案を否決

して、後は残った議案全てを審議未了廃案にして、今教団総会は終わりました。

 議長団の議事運営からすれば、法廷議案と執行部である常議員会提案の議案以外の議案はすべて上程して

丁寧に審議し、議決するという姿勢は感じられませんでした。議長団は全ての議案の議事運営を公平にスム

ーズにしていく責任がありますが、議長団にそういう姿勢は全く感じられませんでした。議長は戦時下教団

の統理と同じか、それ以上の権限を持っているかのように振る舞っていました。そのような現教団執行部に

まともにぶつかっても、しばらくは期待できないように思います。残念ながら日本基督教団ではしばらくは

このような姿勢が続いていくのでしょう。
 
 いろいろと書きたいことはたくさんありますが、少し時間をいただき、整理してからにしたいと思います。


        黙想と祈りの夕べ通信(532[Ⅺ-10]2009・12・6発行)復刻版


 先日神奈川教区性差別問題特別委員会の公開研修会が当教会で行われ、私も参加しました。テーマは「レ

ズビアンという生き方」で、講師は「信仰とセクシュアリティを考えるキリスト者の会(ECQA)」代表のH

さんでした。私は1991年頃にアドリエンヌ・リッチというアメリカの詩人でレズビアンの人が書いた女性

論3部作が邦訳され、それを一気に読んだことがあります。『嘘、秘密、沈黙』、『血、パン、詩』、『女

から生まれる』(大島かおり訳他、晶文社)です。その時強く感じたのは、リッチの言語表現についてで

した。言語は伝統的には男性中心によって作られています。リッチの感性でとらえた事柄を表現する場合

、伝統的な言語では正しく、また十分に表現できないということなのではないでしょうか。リッチは自分

の言いたいことを表現するために自分で言葉を創造しながら言語表現をしているように感じました。その

すごさに驚かされたことを覚えています。リッチは最初異性愛者として結婚して子どもを与えられました

が、その後レズビアンとしての生き方を選んだ人です。講師のHさんのお話を聞いていても感じましたが、

一つ一つの言葉の選び方をはじめ、参加者の発言への反応に、私などとは比べられないほどエネルギーを

かけているように思えました。それだけ他者との差異に敏感なのでしょう。私などは異性愛社会の中で男

としての自認の中で生きてきましたので、性差についても伝統的な男性と女性の二分法が根強く自分の中

に観念としてあるように思います。しかし、性差については境界はどこにも引けないというのが人間の現

実なのでしょう。

 この公開研修会に参加して、私は別の問題、結婚と家族のことで、参加者の一人の発言に衝撃と刺激を

受けました。話は聖餐のことから引き出されました。洗礼を受けていなければ、聖餐を神の恵みとして陪

餐できないかということです。小さいときから未受洗者にも開かれた聖餐(主の食卓)に与かっていた子

どもが小学生高学年になり、自分から神の恵みとしての聖餐に陪餐していると言っているというのです。

それは閉じた聖餐を行っている教会に出席していて、聖餐には与かったことがない子どもとの会話の中で

のことだったというのです。その子の母親である参加者の一人が、子どもの関係で学校を通して他の子ど

もの保護者の方々と一緒になることがあるが、いろいろなことで違いを感じ苦労しているというのです。

その関連で自分たち家族は、夫とも3人の子どもとも、一年ごとに確認しながら続けている共同生活で、

社会制度としての結婚はしていないというのです。夫とは共同生活をはじめてから一年ごとにまた新しい

一年間一緒に生活していくかどうかを契約更新のように確認していくそうです。子たちも何歳ごろからか

は分かりませんが、親子の関係を継続するかどうかを一年ごとに確認しながら現在まで生活してきたとい

うのです。戸籍上は上の二人の子は母親に、一番下の子は父親に属しているということです。私は以前か

ら通常の結婚は事実婚にならざるを得ないだろうと考えてきました。本人同士の約束による共同生活です

。その約束が破綻したならば、二人の共同生活は崩壊せざるを得ません。しかし、その場合子どもはどう

なるのでしょうか。子どもはどちらかの親を自分から選ぶことになっていくのでしょうか。夫婦と家族の

間柄の中に抑圧支配という強制のない相互の関係はどのようにしたら成立するのかということを考えると

きに、上記の方の夫婦関係、親子関係、家族形態が、人間の未来を切り拓くあり方として大変参考にな

るように思いました。
        


        「神の『時間のない時間』」      12月6日


 死んだ後には、「後」がありません。「前」とか「後」という言葉は、私たちのこの世における人生~時

と空間の中にある生に属するものです。死は私たちを時の流れの限界から解き放ち、神の『時間』へと導い

てくれます。神の「時間」には時がありません。したがって、死後について思いめぐらしても、それは思い

めぐらすことでしかありません。死の向こうには、「最初」も「後」もなく、「ここ」と「あそこ」、「過

去」「現在」「未来」もありません。神がすべてにおいてすべてとなられます。時の終わり、体の復活、イ

エスの栄光に満ちた再臨、これらのものは、時間の中にもはやいない者にとって時間によって分かたれるこ

とはありません。

 時の内にまだ生きている私たちは、キリストにある新しいいのちを理解したり、説明出来るものであるかの

ように振る舞わないことが大切です。神のみ心と知恵は、私たちの心と知恵よりもはるかに大きいからです。

私たちに求められていることは、ただ信頼することです。
 

                     (ヘンリ・J・M・ナウエン『今日のパン、明日の糧』より)