黙想と祈りの夕べ通信(474)復刻版を掲載します。2008年10月のものです。
昨日から今日にかけて、本田哲郎神父を囲む会があり、参加してきましたので、このブログの掲載が遅く
なってしまいました。本田神父を囲む会については、またいずれ報告を書いてみたいと思っています。
黙想と祈りの夕べ通信(474[-03]2008・10・19発行)復刻版
来週いよいよ教団総会が開かれます。その総会で私の退任問題にもひとつの方句がはっきりと見えてくる
と思います。私の退任問題を含めて教団の中にある基本的な対立構造は、ある意味で信仰理解の違いにある
のかも知れません。その違いを簡単に言えば、神をどこに置くかの問題になるように思います。教団に属す
る者は、何らかの意味で神信仰において一つを形成しています。日本基督教団の成立においては国家の力が
加わっていますが、そういう教団に留まる選択をした教会は、そこにある必然性、つまり神のみ心があるこ
とを信じているのだと思います。だから、戦後自由になって、旧教派に戻っていった教会があるにもかかわ
らず、現在教団に属する教会はそこで教団に留まったのです。そういう合同教会としての日本基督教団にお
いて、元々違った伝統の教会が教団に所属し、その違った伝統を突き合わせて合同教会の共通した枠組みを
確認することも、今までしてこなかったし、できなかったのが教団ですから、今はバラバラのいっしょであ
る他ないのです。その意味で信仰告白も教憲教規もゆるやかな規範であって、それ以上のものではありませ
ん。そういうところに、自分たちの考えだけが絶対で、それを認めないものは出て行けと言わんばかりの、背
後に東神大が控えている連合長老会や福音主義教会連合の「神学」が巾をきかせてきました。それが今の教
団の状況です。この人たちの欠陥は自己相対化ができないということです。超越した神のもとに自分たちも
自分たちとは違う立場の人たちも包括されているという考えならば、話し合いができますが、神は自分たち
の側にしかいないとなれば、他者に対しては従うか従わないかを問うだけで、話し合いは不可能です。自己
相対化に立つ者は、そういう人たちをも排除せずに歴史の審判に委ね、なすべきことを黙々となしていくこと
ではないでしょうか。
上記の私の発言に続いて一人の方の発言がありました。昨年の今頃はじめてこの黙想と祈りの夕べに出席し、
北村牧師の教師退任問題のことを知り、びっくりした。その後この問題をめぐって紅葉坂教会の人たちの話し
合いがあり、自分もその場に出て、紅葉坂教会に集まってくる人たちがどういう人たちであるかが分かってき
て、その後続けてこの教会に来ている。ポール・マッカートニーにタッグ・オブ・ウォーという歌がある。そ
の歌詞の中に「僕らは異なったドラムを打ちだすビートに 合わせて 踊っていることだろう」というフレー
スがある。みな個性が違って、行動も違ってくる。でもこのフレーズのようにみんな手を取り合って歩めるの
ではないか。北村牧師の問題がどうなるか分からないが、北村牧師も紅葉坂教会も、たとえ今以上に厳しくな
っても、このフレーズを思い出して、深刻にならないようにと思う。
別の方の発言が続きました。先週も話をしたが、同性愛や性的マイノリティーの当事者の講演があった教区
の婦人集会後、委員会のメンバーと話をしているときに「インターセックス」の事が話題になった。その二日
後朝日新聞の本の紹介に帚木蓬生作「インターセックス」が出ていたので、早速購入した。この作家は、小説
を書くときに、それを読んだ人の生き方が変わるような本を書かなければという主張があるようだ。その本の
内容はインターセックスの子供が生まれると外科医は男女どちらかを染色体で調べ、早いうちに手術を行う、
しかし性差医療の女性医師は、からだに傷を入れるのではなく、本人が性を選べる時まで待つという。そして
その患者に寄り添う姿勢を見せる。その彼女の言葉の中に「アフリカの格言に『人の病の最高の薬は人である」
という格言がある」と言う。私はこの言葉に出会い、NPOに関わってきて、障がい児をもつ親が何に苦しむかと
いうと、医者の無理解な言葉や社会的な差別である。その場合には逆に「人の病を作っているのは人である」
ではないかと思わされた。この格言を読んで、自分も人から癒されているし、人を癒すことができたらと思っ
た。治らない病でも平安でいられるのは、人の介入によるからであろう。今回この本に出会えたのはうれしか
った。イエスも病を癒す人だった。私自身もこのことを心にとめていきたいと思う。
もう一人の方の発言がありました。8時過ぎに夜外に出て空を見るのが好きだ。南の方の空に光るものがある。
星とは違うようにも見えるが、私は星だと思っている。通りがかった人が、あれは人工衛星だよね、と言った。
一度専門的によくわかる人に尋ねたいと思っているが、今もって確かめてはいない。心の中では人工衛星だと
思っている。本当に晴れた夜空ではなくて、薄曇の時にも光って見えるからだ。人間って物分りが悪い。こん
なにきれいな衛星が空を飛んでいるのに、世の中の争いごとはつまらないと思うが、世の中はそうはいかない
と、現実に引き戻される。清らかな神の光のように照らしていきたい。
「あり余る恵み」 10月19日
何世紀にもわたって教会がしてきたことは、批判的な人であれば誰でも教会を去ろうと思わせるに十分でし
た。暴力をほしいままにした十字軍、ユダヤ人虐殺、権力闘争、抑圧、破門、処刑、人々や思想をあやつり、
分裂を絶えず繰り返してきた歴史であり、それは実に目も当たられないほどひどいものです。
これが、神のみ言葉と神の癒しである愛のサクラメント(秘跡)を、そのいのちの中心におく教会と同じ
ものだと信じることが出来るでしょうか。あらゆる傷ついた人々のただ中にありながら、教会がキリストの
傷ついた体を、永遠のいのちの糧としてこの世に差し出していることに信頼を寄せられるでしょうか。罪が
増したところには恵みはなお一層満ち溢れ、約束が繰り返し反古にされたところに、神の約束は揺るぎなく
生き続けていることを受け入れられますか。信じるとは、これらの問いかけに「はい」と答えることです。
(ヘンリ・J・M・ナウエン『今日のパン、明日の糧』より)