なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

黙想と祈りの夕べ通信(473)復刻版

 黙想と祈りの夕べ通信(473)復刻版を掲載します。2008年10月のものです。

 下記に記されています出版記念シンポジュウムでの私の発題が契機となって、出版社の方に今まで私が話

したり、書いたりしたものをまとめて本にしてみませんかと勧められて、『自立と共生の場としての教会』

という本が完成しました。この本は2009年2月25日発行になっていますので、下記のシンポジュウムの後、

11月の初めごろに出版社の方から話があり、2か月ぐらいでまとめたものです。自分の書いたり、話したり

したものが本になるなどとは夢にも思っていなかったものですから、この時も何かに突き動かされるように

して、一気にまとめました。戒規免職処分も自分では想定外でしたが、自分の思いを超えて動く力のような

ものが、私たちの日常にはあるのだということを、この二つの出来事でも感じています。


        黙想と祈りの夕べ通信(473[-02]2008・10・12発行)復刻版


 『聖餐の豊かさを求めて』と新教コイノーニア24『聖餐~イエスのいのちを生きる~57人の証言』の出

版記念シンポジウムが、7日に東京の信濃町教会で行われました。シンポジウムの発言者は、荒井献さん、

池田伯さん(東神大の私の先輩で、信濃町教会牧師として働き、その後奥羽教区の教会でしばらく働いて、

今は隠退されています)、それに私の3人でした。その集会で販売されていました本の中から『まことの聖

餐を求めて』(芳賀力編、教文館、2008年)を購入し、半分ほど読んで見ました。私はこの本の表題の「ま

ことの」が気になります。「豊かな聖餐」に対して「まことの聖餐」を対峙させているのでしょうが、「正

しい聖礼典の執行」と言われる山北教団総会議長の「正しい」も同じですが、「まことの」とか「正しい」

とかいうことがそう簡単に言えるものなのかという基本的な疑問を感じるからです。これは今回の私の退任

問題が常議員会で取り上げられたときに、私が繰り返し主張した点です。ご存知ない方も多いと思いますが、

70年の頃の東神大闘争において、東神大の学長の高崎毅さんが教授を批判する学生たちを、「まことの福音」

ではなく「異なる福音」に立つ者として、高崎さんと東神大教授会は「まことの福音」を守るためにという

ことで、教授会を批判する学生を排除しました。その際正統と異端という図式が利用されたのです。今回の

集会の中でもある方が発言しておられましたが、バルトは、サクラメントはイエス・キリストのみで洗礼も聖

餐も教会の応答であるとして、洗礼や聖餐の絶対化を否定したのではないかという主旨の発言をしていまし

た。もし「まこと」とか「正しい」とか言えるものがあるとすれば、神ご自身の側にであって、われわれ人

間の側はすべて相対的であるということをわきまえておかなければならないと、私は思うのです。従って、

我々の側では論争とか批判とかいう作業を通して、お互いに真理を求めていくというところで一致していく

のではないでしょうか。その意味で「まこと」や「正しい」という言葉の使い方は慎重にしなければならな

いと思うのです。

 上記の私の発言に続いて一人の方の発言がありました。先週神奈川教区の婦人問題小委員会と婦人委員会

共催の講演会が六角橋教会であった。内容は同性愛や性的少数者への差別を考えることであった。なぜ 同性

愛は罪であり、同性愛者が牧師であるのはおかしいというような発言をするのか、私にはよく分からない。

マイノリティーの方々に心無い言葉をかける無理解な人がいる。10年前の全国の超教派の女性会議でマイノ

ティーの方々に出会った。マイノリティーの方は、自分は存在していてもよいのかという悩みを抱えなが

ら生きてこられ、そしてどこかでそういう自分でも存在していていいのだと言われて存在しているという方

が多い。そのせいか大変デリケートで優しい人が多い気がする。今回の講演会ではMさんとTさんの二人を講

師に招いた。祈りながら準備した。礼拝の時からオルガン伴奏に、TさんのピアノとMさんのギターが加わり、

大変豊かな礼拝ができた。お二人の講演もご自分の体験を赤裸々に話してくださった。講演後にフロアーか

らの質疑の中で、自分にとっては初めての出会いでよかったという人がいた。実際は今までにもいろいろな

所でマイノリティーの方と出会っているのだろうが、気付けなかっただけではなかったろうか。お二人の講

演は私たちの偏見を取り除いてくれるものがあった。参加者の中には、この会は今までの集会の中でも一番

よかったという言われた方もいらした。Mさんは「自分らしく」と何回も言われていた。昨日神奈川教区の常

議員会で新任の女性教職の方の面接があった。その方の発言はその人らしさがほとんど感じられず、型には

まった答えに終始した。私はその方に「自分らしく」ということを言いたかったが、言えなかった。母とし

て妻として伝道者として、枠にはめようとする自分から解放されて、聖書から自由な生き方をひとりひとり

固有の命を与えられた者として共に歩んでいきたいと思った。祈っていきたい。

 もう一人の方も、ひと言発言された。私も今話された講演会に出席して本当によかった。世の中には聞か

ないで知らないでいることによって、偏見を持つことが多いと感じた。

           
      「一つの信仰の二つの側面」      10月12日


 私たちと共にいる神となるためにみ子を遣わされた神はまた、私たちと共にいる神となるためにみ子と聖

霊を遣わされました。この神を信じる私たちの信仰が本物になるには、教会を信じる信仰が不可欠です。教

会は神が私たちに対する愛を示すために好んで選ばれたとは思えない人々の集まりです。神は2000年ほど前

に、中東の世間の目から忘れられたような小さい町に住んでいた少女の内に人となることを望まれた、とい

うことは、ありそうにもないことのように思えます。それと同じように、言い争いや偏見、権威をめぐるい

さかいや勢力争いで絶えず引き裂かれている人々のコミュニティーの内に、神は救いの業を続けることを望

まれた、ということもありそうにも思えないことです。

 けれども、イエスを信じ、教会を信じるのは、一つの信仰の二つの側面です。それは思いもよらないこと

ですが、神のなさり方そのものなのです。


                   (ヘンリ・J・M・ナウエン『今日のパン、明日の糧』より)