なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

3月23日(日)礼拝説教(その1)

「亀裂から見えるもの」マタイによる福音書27章45-56節(その1)
          2014年3月23日(日)受難節第3主日、横浜二ツ橋教会礼拝説教

・おはようございます。北村と申します。私は、昨年3月をもってこの教会を辞されましたM牧師や
Tさんとは、神奈川教区で長い間交わりを与えられ、一緒に活動してきた者です。Tさんからは前々からM先生がお辞めになって一年間無牧になったので、一度横浜二ツ橋教会に説教に来てもらえないかと言われていましたが、なかなか船越教会の礼拝を空けることができず、この3月の最後に なって、この機会をつくることができました。まず横浜二ツ橋教会の方々には、「未受洗者陪餐」を理由に教団から教師免職処分を受けています私をご支援いただいていますことを、心から感謝申し上げます。

・さて、今は教会の暦では受難節に当たりますので、イエスの十字架の出来事について、今日はお話しさせていただきたいと思います。ご存知のように、イエスの十字架は権力者による処罰に当たると考えられます。福音書のイエスの受難物語を読んでみますと、イスカリオテのユダの裏切りから始まって、イエスは当時の官憲による逮捕・捕縛を経て、その後ユダヤ自治機関であったサンヒドリンとローマ総督ピラトによる・審問(裁判)が行われ、十字架刑に処せられたことになっています。つまりイエスは権力を持った人たちによって裁かれたわけです。直接的にはローマ総督のピラトによって処刑されたのではないかと思います。

・この人が人によって裁かれるということを、イエスの場合とは全く比較にならないほど些細なことに過ぎませんが、私も日本基督教団という宗教集団の中で教師免職処分という形で体験しました。2010年1月27日のことでした。その前日の26日に教団の教師委員会は私の戒規免職処分を決定していました。その決定通知書を予告なしに当時の教師委員会委員長松井睦、教師委員・調査員張田眞、教師委員会担当幹事道家紀一の3人が紅葉坂教会にやってきて、私に手渡していきました。後で法律に詳しい方から、その時私が決定通知書を受け取らなければよかったと言われましたが、予告なしにではありますが、わざわざ来たのですから、教会の小集会室に入れて、話を聞いて、その決定通知書なるものを私は受け取ったわけです。私自身は福音の理解に関わる聖餐式の在り方で法による処罰を受けるということは、中世の教会ならいざ知らず、現代の教会ではあり得ないことだと思っていますので、私の戒規免職処分については教団の方がおかしいと思っています。けれども、この免職処分は教団における私の教師としての存在を全面的に否定していることでもありますので、この免職処分によって、私は存在の否定ということがどういうことなのかということを、多少経験しているわけです。例えば、現在私は教団年鑑の教師名簿から名前が削除されています。船越教会では私を牧師として迎えてくれていますが、教団教区では教団年鑑の船越教会の牧師欄でも削除されていますし、教区総会議案の議員名簿の中で船越教会の教職欄も未定となっていて、私の名前はありません。また、私が死にますと、通常の教団教師の場合は、次年度の教団年鑑に写真と名前が出ますし、教区総会でも追悼礼拝が行われますが、私はどちらからも排除されます。要するに私は教団教師としては存在しないのです。1969年4月から教団の教師になって教団の教会で45年間も働いてきたわけですが、免職処分によって、教団はそのことが一切ないものとしているわけです。

・そういう免職処分による教団という組織からの抹殺は、十字架刑という権力者によるイエスの抹殺と事柄の重さや深さでは根本的に違いますが、本質的には共通するところもあるように思われます。そういう意味で、私は免職処分を受けてから、改めて十字架上のイエスの思いを想像して、思い巡らすことがあります。今日は、そのことを先ほど読んでいただいたマタイ福音書の27章45節以下からお話しさせていただきたいと思います。