なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

黙想と祈りの夕べ通信(589)復刻版

 黙想と祈りの夕べ通信(589)復刻版を掲載します。2011年1月のものです。


       黙想と祈りの夕べ通信(589)[Ⅻ-15]2011・1・9発行)復刻版


 昨年の暮れにHさんが召されて、教会で葬儀式を行いました。このところ教会では葬儀がないと思ってい

たところでした。新しい年になって、1月4日(火)に教会員ではありませんが、Sさんが召されて、教会で

葬儀を行ってもらえないかと頼まれました。7日(金)の19時に教会で納棺式を行い、火葬場の関係で8日

(土)9時に教会で葬儀式を行いました。その葬儀式でのお話の一部をここに載せさせていただきます。聖

書箇所はヨハネの黙示録21章1-7節です。

 時間というものは大変不思議なものです。時計の刻む時刻は全ての人に共通していると思いますが、一

人一人の感じる時間はいろいろではないかと思います。嬉しいときは時計の刻む時刻を忘れて、何時間経

っていても、一瞬に感じられることもあります。逆に辛く苦しい体験をしているときには、まだ時刻とし

ては数分しか経っていなくても、何時間も過ぎたように思えることもあります。ですから、私たち人間が

感じる時間というものは、時計の刻む時刻とは異質なものと言えましょう。

 今私たちはSさんの葬儀式にいます。ここには棺に入ったSさんの遺体があります。私たちは他者である

Sさんの死を通して、人間の死という出来事に直面させられているわけです。人はいつかこうしてSさんと

同じように死ぬのだと、私たちは思います。つまり、人間の人生の時間は限られていることを知るのです。

誕生から死までの時間をこの地上で家族を始め、多くの人とのかかわりの中で生き、そして何れ息を引き

取ることになります。そしてその限られた時間をどう生きるのか。あるいは自分はどう生きているだろう

か。この限られた人間の人生の意味は何だろうか。いろいろ考えさせられます。また、そんなことを考え

ても致し方ないから、とにかく生きている間は、自分のやりたいことをやるんだという人もいるでしょう。

そういう意味で時間というものは大変不思議なものです。

 聖書には人間の時間に神の時間が突入してきて、神にあっての人間の歴史、人間にあっての神の歴史が織

り成されて描かれています。ですから織物で言えば、縦糸が神の歴史であり、神の時間です。横糸は人間の

歴史であり、人間の時間です。人間の歴史や時間の中の一部が個体としての個人の歴史と時間です。個体と

しての個人の歴史は、Sさんの場合1919年から2011年という91年間になります。しかし人類の歴史はその前後

に広がって何十万年と続いています。家族の歴史、種族の歴史、民族の歴史、国家の歴史、その他さまざま

な人間の営みの歴史が、そこには含まれています。人間の誕生から人類の滅亡まで、どのくらいなのか、今

は続行中ですので、まだわかりません。過去・現在・未来につながる時間です。その人間の時間と歴史に神の

時間と歴史(ドラマ)が介入するのです。そして人間の時間と歴史に生きている人間が神の介入の時間と歴

史を、信仰によって記したのが聖書の諸文書です。この聖書から、私たちは神がどういう風に私たちの時間

と歴史に介入してくるのかを知ることができます。

 ヨハネの黙示録の箇所は、神が最後をどうしめくくるかということが書かれています。天地創造、人間創

造を記す創世記のはじめのところが、神の時間と歴史の始まりとすれば、黙示録のこの最後の箇所は、神の

時間と歴史の終わりがどうなのかを記しているのであります。神の最後は、日本沈没でも、人類と地球の絶

滅でもなく、全てが新しくなる万物の更新なのです。21章5節に「見よ、わたしは万物を新しくする」と記

されていました。ここでの「わたし・・・」は神ですから、神は万物を新しくするというのです。では、どう

いう風に新しくなるのでしょうか。3節、4節にはこう記されています。「見よ、神の幕屋が人の間にあっ

て、神が人と共に住み、人は神の民となる。神自ら人と共にいて、その神となり、彼らの目の涙をことごと

くぬぐい取ってくださる。もはや死はなく、もはや悲しみも嘆きも労苦もない。最初のものは過ぎ去ったか

らである。」

 Sさんも私たちも、神の時間と歴史における最後の万物更新のときには、このような神の民の一員になり、

神と共に、また全ての人と共に、分け隔てなく、すべての地上の生活における「死も、悲しみも嘆きも労苦

もない」平和な神の国に与ることができるというのです。私は、新しい世界がこのように、神と共に人が住

み、人と人とを分け隔てるすべての力、死、悲しみ、叫び、痛み、が全く過ぎ去ったものとして描かれてい

るところに、深い感動を覚えるのであります。そういう神の終わりで、本当に新しい始まりの時間と歴史を

思い描き、信じて今を生きることのできる幸いを思うのです。

 私たちは死んで、すべてが終わるのではなく、死もまた、私たちがこのような神の新しい創造の時と世界

に至るその一里塚に過ぎないことを、聖書から知らされるのです。とすれば、私たち人間は、誕生から死ま

でのこの地上の限られた人生を、生きて死ぬという道ではなく、この黙示録の著者が語る万物更新の時に至

る時間と歴史に向かって、日々古き自分に死に、日々新たに生まれ変わるのではないでしょうか。

 この日々死に、日々新たに生まれる生を、今年もそれぞれ歩んで参りたいと思います。


            「傷を踏み越える」    1月9日


 時として、私たちは怒りや妬み、拒絶の感情を「乗り越え」て、先に進まねばならなりません。否定的な

感情にどこまでも固執し、あたかも、そこが私たちのいるべきところであるかのように、その中に 浸りが

ちです。そうなると、私たちは腹を立てて、無視され、捨てられた人になってしまいます。私たちは、その

ような否定的な感覚に捕らわれ、時にはそれにゆがんだ喜びを見出すことさえあります。このようなくらい

感情を見つめ、それがどこから来たのかを見極めるのはよいことです。けれどもある日、暗い感情を踏み越

え、後にして、旅を続ける時がやって来ます。

 
                    (ヘンリ・J・M・ナウエン『今日のパン、明日の糧』より)