なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

永眠者記念礼拝説教 ヨハネ黙示録21章1-7節

「涙がぬぐわれ」 ヨハネ黙示録21章1-7節、

                                                           2019年11月3日 永眠者記念礼拝

 

  • 今日は永眠者記念礼拝です。既にその与えられた人生を歩み終えて、神のもとに帰って行かれた方々を偲びつつ、ヨハネの黙示録21章1-7節から、慰めの言葉を与えられたいと願います。

・ 時間というものは大変不思議なものです。

 

  • 時計の刻む時刻は全ての人に共通していると思われますが、一人一人の感じる時間はいろいろではないかと思います。嬉しいときは時計の刻む時刻を忘れて、何時間経っていても、一瞬に感じられることもあります。逆に辛く苦しい体験をしているときには、まだ時刻としての時間は数分しか経っていなくても、何時間も過ぎたように思えることもあります。ですから、私たち人間が感じる時間というものは、時計の刻む時刻とは異質なものと言えるでしょう。

 

  • 今日は永眠者記念礼拝です。私たちは今ここに集い、ここに写真のある既に召された方々のことを偲びつつ、この礼拝に連なっています。この写真の方々はすでに召され方々です。死んで、今は、私たちのように生きてはいません。私たちは今、この方々を通して人間は誰もいつかは死んでいくのだという、厳然とした事実に直面させられています。

 

  • 人はいつかこの写真の方々と同じように死にます。

 

  • つまり、人間の人生の時間は限られているのです。私たちすべては、誕生から死までの時間をこの地上で、家族を始め、多くの人とのかかわりの中で生き、そして何れ息を引き取ることになります。そこには誕生から死までという限られた時間が感じられます。そしてその限られた時間をどう生きるのか。あるいは自分はどう生きているだろうか。この限られた人間の人生の意味は何だろうか。いろいろ考えさせられます。また、そんなことを考えても致し方ないから、とにかく生きている間は、自分のやりたいことをやるんだという人もいるでしょう。

 

  • そういう意味で時間というものは大変不思議なものです。

 

  • 聖書には人間の時間に神の時間が突入していて、神にあっての人間の歴史、人間にあっての神の歴史が織り成されて描かれています。ですから織物で言えば、縦糸が、神の歴史であり、神の時間です。横糸は、人間の歴史であり、人間の時間です。人間の歴史や時間の中の一部が個体としての個人の歴史と時間です。

 

  • 個体としての個人の歴史は、現在は長くても100年前後でしょう。しかし人類の歴史はその前後に広がって何十万年と続いています。家族の歴史、種族の歴史、民族の歴史、国家の歴史、その他さまざまな人間の営みの歴史が、そこには含まれています。

 

  • 人間の誕生から人類の滅亡まで、どのくらいなのか、今は続行中ですので、まだわかりません。過去・現在・未来につながる時間です。その人間の時間と歴史に神の時間と歴史(ドラマ)が介入するのです。そして人間の時間と歴史に介入する神の時間と歴史を、信仰によって記したのが聖書の諸文書です。この聖書から、私たちは神がどういう風に私たちの時間と歴史に介入してくるのかを知ることができます。

 

  • 富田正樹さんという人は、「信じる気持ち『はじめてのキリスト教』」という本で、こういっています。

 

  • 「神を信じている人とは、『自分の人生の物語が、何者かの見えない手によって導かれているのではないか』ということを、信じようとしている人たちのことです。/そして、これからの人生も何者かが自分の人生を、長い目で見て、きっとよい方向に導いてくださるだろうということに賭けている人たちとも言えます。私たちの人生がトラブルに直面したとき、神が直接手をくだして助けてくれるということはありません。しかし、長い目で見れば、そのトラブルにも実は意味があったのだと受け取ることが、信じる人にはできます。/このように、神は私たち自身の心に働きかけて、人を動かしてゆく、いわば私たちの心のなかに住んでいる良心、心や愛や強さを引き出す存在なのです」と。
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  • 先ほど読みましたヨハヘ黙示録の箇所は、神が最後をどうしめくくるかということが書かれています。天地創造、人間創造を記す創世記のはじめのところが、神の時間と歴史の始まりだとすれば、黙示録のこの最後の箇所は、神の時間と歴史の終わりがどうなのかを記しているのであります。

 

  • 神の最後は、人類と地球の絶滅ではなく、全てが新しくなる万物の更新なのだと。

 

  • 21章5節に「見よ、わたしは万物を新しくする」と記されていました。ここでの「わたし・・・」は神ですから、神は万物を新しくするというのです。

 

  • では、どういう風に新しくなるのでしょうか。3節、4節にはこう記されています。私の大好きな言葉の一つです。

 

  • 「見よ、神の幕屋が人の間にあって、神が人と共に住み、人は神の民となる。神自ら人と共にいて、その神となり、彼らの目の涙をことごとくぬぐい取ってくださる。もはや死はなく、もはや悲しみも嘆きも労苦もない。最初のものは過ぎ去ったからである。」

 

  • 死者も生者も、神の時間と歴史の最後の万物更新のときには、このような神の民の一員になり、神と共に、また全ての人と共に、分け隔てなく、すべての地上の生活における「死も、悲しみも嘆きも労苦もない」平和な神の支配に与ることができるというのです。

 

  • そういう神の終わりを信じ、この地上の生活を送っている信仰者の姿を、井上良雄さんという人は、このような譬で語っています。

 

  • 「ここに一つの家があり、この家は既に朝の光に包まれています。しかし、この家の窓には、厚いカーテンが下りているために、この家に住むものは、ただ闇の中に生きなければなりません。闇が彼らの現実です。そのことは、そこに生きているキリスト者にとっても、変わりありません。ただキリスト者は、そのような闇の現実に生きつつ、この現実は既に過ぎ去った現実であり、この家が既に朝の光に包まれているということこそ確かな現実だということを知っています。そのようなキリスト者にとって、朝が既に来ているという告知(知らせ)は、決して理想ではなく、美しい夢でもありません。しかし、彼はなお同時に、自分がまだ闇の中に生きているものであることも忘れません。彼は、言わばこれらの二つの現実の狭間に身を横たえて生きます。彼は闇の中にあって、やがてこの家のカーテンが取り払われ、朝の光が家の中に満ち溢れる日を待ちつつ生きます。」

 

  • この譬を借りて言えば、ヨハネの黙示録の著者は、「カーテンが取り払わっれて、朝の光が家に満ち溢れる日」のことを先取りして、語っているのではないでしょうか。もう一度読んでみます。

 

  • 「見よ、神の幕屋が人の間にあって、神が人と共に住み、人は神の民となる。神は自ら人と共にいて、その神となり、彼らの目の涙をことごとくぬぐい取ってくださる。もはや死もなく、もはや悲しみも嘆きも労苦もない。最初のものは過ぎ去ったからである」。

 

  • 私は、新しい世界がこのように、神と共に人が住み、人と人とを分け隔てるすべての力、死、悲しみ、叫び、痛み、が全く過ぎ去ったものとして描かれているところに、深い感動を覚えるのであります。そういう神の終わりで、本当に新しい始まりの時間と歴史を思い描き、信じて今を生きることのできる幸いを思います。

 

  • もしこのような人間の歴史に介入する神の歴史を信じることができるとすれば、私たちは死んで、すべてが終わるのではなく、死もまた、私たちがこのような神の新しい創造の時と世界に至るその一里塚に過ぎないことを、聖書から知らされます。

 

  • とすれば、私たち人間は、誕生から死までのこの地上の限られた人生を、生きて死ぬという道ではなく、この黙示録の著者が語る万物更新の時に至る時間と歴史に向かって、日々古き自分に死に、日々新たに生まれ変わるのではないでしょうか。

 

  • 生きている者も死んだ者も、歴史が神によって終わる時まで、そのような神の未来に向かってそれぞれの時を過ごすのです。生きている者は、この地上で、与えられた賜物と環境の中でこの神の終わりに与るにふさわしい者として過ごし、死者は神のみもとにあって、人生の証人としてその時を待つのです。

 

  • もしそのような考え、信じることができるとするならば、今もこの世に生きている私たちと、すでに召されて神の下に帰った死者たちとには、根本的な隔たりはないということになります。

 

  • 神の終わりを待ち望む者として、死んだ者も生きている者も変わらないからです。

 

  • 今年もこの永眠者記念礼拝において、そのことを確認し、いずれ私たちも与えられた人生の歩みを終えて、神の下に帰って行くときに、既に召された私たちの愛する方々と共に、天上にあって神をほめたたえることが許されるようにと願います。そのためにも、今まだこの地上において生かされて、その人生の途上を歩んでいる私たちは、神の終わりに与かるにふさわしい者として、与えられる日々を大切に歩んでいきたいと願います。

 

  • 主がこの地上での人生を歩み終えて、神のもとにある方々と共に、また今まだ人生の途上を歩んでいる私たちと共にいてくださいますように。
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