なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

永眠者記念礼拝説教(11月3日)

「落胆しない」コリントの信徒への手紙二、4:16-5:10

                    2013年11月3日船越教会礼拝説教

・今日は、教会の暦によりますと、「聖徒の日」になります。この「聖徒の日」とは、元来カトリック教会が、殉教者や信仰と徳に特に優れている人を、「聖人」と定め(列聖)、教会歴にその祝日を定めたことに由来します。カトリック教会では、そのような聖人の徳に与ることが、信徒の救いに有効であると考えたからだろうと思います。

プロテスタントの教会では、そのようなカトリックの信仰はありません。ですから、この「聖徒の日」は「永眠者記念日」とされており、既に人生を歩み終えて、天上の人になっている方々を偲び、追悼の時としてこの日を守ることにしています。そういう意味で、船越教会でも、この日(11月最初の日曜日)の礼拝を「永眠者記念礼拝」として守っているのであります。

・この講壇の前にあります写真の方々が、船越教会に関係しておられて、永眠された方々であります。この一年間に、新しくお二人の方が、この中に加えられました。3月5日にAさんが、9月2日にZさんが帰天されました。

・今日は、これらの方々のことを覚えつつ、礼拝を捧げたいと思います。そこで、ご遺族の方々も、この礼拝にいらしていますので、聖書は、人間の死についてどのように語りかけているのか、また、死によって失われることのない、私たち全てに与えられています神のいのちについて、どのように語っているのかを、先ほど司会者に読んでいただいた聖書の個所から、私たちへのメッセージとして聞いてみたいと思います。

・まず、聖書も、人は必ず死ぬと見ています。将来ips細胞によって、人間が死ぬことができなくなる社会が来るかもしれませんが、そういう世界を聖書は全く想定していません。詩編90編には、私たち人間の人生に限りがあることがはっきりと書かれています。神によって創造された被造物でありながら、いのちの神に逆らっているから、神の怒りを受けて、私たちは死なざるを得ないというのです。

・《あなたの恐りによって わたしたちは絶え入り/あなたの憤りに恐れます。/あなたはわたしたちの罪を御前に/隠れた罪を御顔の光の中に置かれます。/わたしたちの生涯は御怒りに消え去り/人生はため息のように消えうせます。/人生の年月は七十年程のものです。/健やかな人が八十年を数えても/得るところは労苦と災いにすぎません。/瞬く間に時は過ぎ、わたしたちは飛び去ります。/御怒りの力を誰が知りましょうか。/あなたを畏れ敬うにつれて/あなたの憤りを知ることでしょう。/生涯の日を正しく数えるように教えてください。/知恵ある心を得ることができますように。》(90:7-12)。

・ここに語られていますように、人間の死は神の怒りによるという考え方は、聖書の中にある宗教的な死生観の一つと言えるでしょう。それは、この詩編をつくった古代ヘブライ人が、人間の死に直面して、そこに自らの信仰的意味を見出したということです。そのことは、人間の死が抗いがたい現実であることを間接的に示しえいると言えるでしょう。

・では、人は必ず死ぬという、そのような現実に直面して、聖書の人々はどのようにその死の現実と向かい合ったのでしょうか。先ほど読んでいただいた、コリントの信徒への手紙二を書いたのは、パウロと言う人物です。そのパウロの死との向かい合い方が、先ほどのところに書かれています。パウロも、詩編詩人と同じように、罪と死を結び付けています。ローマの信徒への手紙の6章23節では、「罪の支払う報酬は死です」と記しています。そのパウロが、では、私たち人間が死の支配から自由になる可能性がないのか、という問いに答えているところが、先ほど読んでいただいた4章16節以下です。

・4章16節のはじめに、「だから、わたしたちは落胆しません」と記されています。ここに「落胆しません」と言われています。何に落胆しないのかと言えば、このところのパウロが書いた文脈からしますと、罪の支払う報酬としての死との向かい合いにおいて、ということになります。つまり、パウロは、死に直面しても、「私たちは落胆しない」と言っているのです。それは、何故でしょうか。パウロによれば、死に打ち勝ったイエスの復活のいのちがわたしたちにも与えられているので、そのいのちを信じて生きる者にとっては、死は決して究極のものではないと言えるからなのです。

・つまり、私たちは、誕生から死に向かって人生を生きていく、「死に至る存在」ではありますが、死が究極的なもの、最期のもの、ではないと言うのです。むしろ、死に打ち勝った復活のいのちこそ、私たちにとって究極的なもの、最期のものであると言うのです。ですから、パウロによれば、私たちは、死に向かって生きているのではなく、いのちに向かって生きているのです。死はその通過点に過ぎません。パウロは、他の所で「日々死に、日々生きる」ということを言っています。

・4章3節に、「滅びの道をたどる人」と言う言葉が出て来ます(2章15節にも)。このところで、パウロは、「滅びの道をたどる人」には、主イエス・キリストの福音の光が見えないと言っています。「わたしたちの福音に覆いが掛っているとするなら、それは、滅びの道をたどる人々に対して覆われているのです。この世の神が、信じようとしない人々の心の目をくらまし、神の似姿であるキリストの栄光に関する福音の光が見えないようにしているのです」(4:3,4)と言うのです。「この世の神」と言われていますが、これは力と富と言ってもよいでしょう。

・ところが、パウロは、パウロをはじめ、主イエス・キリストを信じている人には、その「光を悟る光」が与えられていると言うのです。「『闇から光が輝き出よ』と命じられた神は、わたしたちの心の内に輝いて、イエス・キリストの御顔に輝く神の栄光を悟る光を与えて下さいました」(4:6)と言われている通りです。そして、パウロは、わたしたちは「このような宝を土の器に納めています」(4:7)と言っているのです。そして、この宝によって、「死ぬはずのこの身にイエスの命が現われる」ようになると。

・その命とは、復活の命で、パウロは、「主イエスを復活させた神が、イエスと共にわたしたちをも復活させ、あなたがたと一緒に御前に立たせてくださると、わたしたちは知っています」(4:14)と、大胆に語っているのです。ヨハネ黙示録という聖書の一番最後の文書の中に、こういう言葉があります。今までの世界が過ぎ去って、新天新地が現われると、「そのとき、わたしは玉座から語りかける大きな声を聞いた」と言って、ヨハネ黙示録の著者はこう記しているのです。「『見よ、神の幕屋が人の間にあって、神が人と共に住み、人は神の民となる。神は自ら人と共にいて、その神となり、彼らの目の涙をことごとくぬぐい取ってくださる。もはや死もなく、もはや悲しみも嘆きも労苦もない。最初のものは過ぎ去ったからである』」(21:3,4)と。

パウロをはじめ、聖書の人々は、このような信仰によって、究極的な終わり、完成が、神によって必ず実現することを信じて、その終わりから今を生きようとしている人々なのです。「だから、わたしたちは落胆しません」と言えるのは、そのような信仰によって生きているからなのです。「だから、わたしたちは落胆しません。たとえわたしたちの「外なる人」は滅びていくとしても、わたしたちの「内なる人」は日々新たにされていきます。わたしたちの一時の軽い艱難は、比べものにならないほど重みのある永遠の栄光をもたらしてくれます。わたしたちは見えるものではなく、見えないものに目を注ぎます。見えないものは過ぎ去りますが、見えないものは永遠に存続するからです。」(4:16-18)。

パウロは、また、このようにも記しています。「わたしたちの地上の住みかである幕屋が滅びても、神によって建物が備えられていることを、わたしたちは知っています。人の手で造られたものでない天にある永遠の住みかです。わたしたちは、天から与えられる住みかを上に着たいと切に願って、この地上の幕屋にあって苦しみもだえています」5:1-2)と。そして、「この(地上の)幕屋に住むわたしたちは重荷を負ってうめいておりますが、それは、地上の住みかを脱ぎ捨てたいからではありません。死ぬはずのものが命に飲み込まれてしまうために、天から与えられる住みかを上に着たいからです」(5:4)。

・「それで、わたしたちはいつも心強いのですが、体を住みかとしているかぎり、主から離れていることも知っています。目に見えるものによらず、信仰によって歩んでいるからです。わたしたちは、心強い。そして、体を離れて、主のもとに住むことをむしろ望んでいます。だから、体を住みかとしていても、体を離れているとしても、ひたすら主に喜ばれる者でありたい」(5:6-9)と、パウロは記しているのです。

・人は、それぞれの人生をその人なりに紡ぎながら、最期は死んでいきます。現象としては、それで、ディ・エンドということでしょう。死によって引き裂かれる別離の悲しみは、愛する者を喪った人は、誰もが経験することでしょう。私も、20代前半に、筋委縮症で4年ほど全身身動きが取れないまま、寝たきりになって、ある日の早朝息を引き取った母を見送っています。その後兄の家で、15年半身不随でベットの生活していた父を見送りました。さらには、姉、兄、妹も送っています。愛する者の死別による悲しみは、人並みに経験しているつもりです。

・けれども、私は、そのような一人一人は、まだ生きている私たちと共に、この地上で行ったそれぞれの行為が、神によって公平に裁かれて、神の命にふさわしい復活した者として、先ほどのヨハネ黙示録の言葉のように、永遠に神と共に住み、神の民の一員として迎えられると信じています。「『見よ、神の幕屋が人の間にあって、神が人と共に住み、人は神の民となる。神は自ら人と共にいて、その神となり、彼らの目の涙をことごとくぬぐい取ってくださる。もはや死もなく、もはや悲しみも嘆きも労苦もない。最初のものは過ぎ去ったからである』」(21:3,4)と言われているように。

・「だから、体を住みかとしていても、体を離れているとしても、ひたすら主に喜ばれる者でありたい」というパウロの思いを、私も共有したいと願っている者の一人であります。願わくは、悲しみを抱えつつ、死者を神に委ね、共に神の前に立つ日を待ちつつ、生かされてある限り、この地上の人生を最期まで、私たちも、パウロと共に、「ひたすら主に喜ばれる者でありたい」との思いを持って生き抜くことができますように、神の執りなしを祈りたいと思います。