なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

葬儀式説教、ローマ8章38、39節

 先週船越教会で私が働くようになって初めての葬儀が行われました。その時の葬儀説教を下記に掲載し

ます。


                葬儀式説教(2013年3月9日)


 ローマの信徒への手紙8章38、39節
 
 「わたしは確信しています。死も、命も、天使も、支配するものも、現在のものも、未来のものも、力

あるものも、高いものも、低い所にいるものも、他のどんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエス

によって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのです」。


(故人の略歴を紹介した後に)

・先ほどお読みしましたローマの信徒への手紙の少し前のところに、「うめき」ということが語られてい

ます。「わたしたちはどう祈るべきかを知りませんが、“霊”自らが、言葉に表せないうめきをもって執

り成してくださる」(26節)とあります。霊とは神ご自身と考えてよいわけですから、ここでは、私たち

人間のために神ご自身がうめきながら執り成してくださるというのであります。神がうめくというと、神

か弱弱しく思われるかもしれません。そしてそんなうめくような神など信じて何になるのかと思われる方

もあるかもしれません。

・さらにその前には、この「うめく」という言葉が2回使われています。そこにはこう記されています。

「被造物(人間を含めた天地万物)がすべて今日まで、共にうめき、共に産みの苦しみを味わっていること

を、わたしたちは知っています」(22節)。つまり、この世界全体、人間も動物も自然も「うめき」なが

ら、産みの苦しみをしているというのです。女の方で子どもさんを出産された方は、その出産の苦しみを

体験されていますから、「産みの苦しみ」という、この表現の感じをからだで理解できるでしょう。新し

い命を生むために苦しむ妊婦の苦しみを想い起こしてみると、世界全体が新しい命に生まれ変わる、その

過程で、陣痛のようにうめき苦しんでいるというのです。国と国、民族と民族の戦争が繰り返し行われ、

人間の豊かさの追求のあまり自然や生態系の破壊によって、この神によって造られた世界が傷つき、苦し

んでいる現代の世界を思いますとき、新しくそのような破壊の無い平和な世界に生まれ変わるために、産

みの苦しみを続けているという比喩は、決して荒唐無稽なことではないでしょう。

・そしてさらに、この自然世界のうめきに続いて、「被造物だけでなく、霊の初穂をいただいているわた

したちも、神の子とされること、つまり、体の贖われることを、心の中でうめきながら待ち望んでいる」

(23節)というのです。ここで「霊の初穂をいただいているわたしたち」と言われていますのは、イエ

ス・キリストを信じる信仰者のことです。ですから、この破壊に満ちた世界と、悪を内にかかえている私

たちの中で、うめき苦しみながら、新しい真の世界と人間へと変えられることを待ち望んでいる、この神

に造られた自然の世界と信仰者のうめきに、神ご自身も共鳴してくださり、共にうめきながら一緒に苦し

んで、執り成してくださるというのが、先ほどの神のうめきです。

・わたしたちと共にうめく神は、高見からこの世俗の世界に生きる私たちを見下ろす方ではなく、私たち

と同じ地平に立って共にいてくださるとともに、そのような私たちのうめきに共感してくださり、すべて

が新しくなるその希望を確かなものにしてくださる方なのであります。

・私たちの多くは、この世の中での成功と安全を祈り求めるのではないでしょうか。そのために、この現

実の社会を支配している競争に勝つために力をつけ、また健康の維持に努めるのです。けれども、聖書の

神を信じる者は、ただこの現生の幸福を求めているのではありません。他者を傷つけ、場合によっては他

者を殺してまで、自分の利益を求める狂った人間ではなく、互いに痛みを分かち合い、相互扶助の生活を

求め、お互いの過ちを赦し合い、お互いを大切にし合って、それぞれの与えられた命と生活を、命尽きる

まで喜んで生きる、そのような人間に、神の助けを得てなりたいと願っているのです。そして神さまから

与えられたこの自然の世界を大切に守って生きることができる、今とは全く違う新しい世界が到来するこ

とを求めながら、それにふさわしい人生を歩んで行きたいと願っている者です。

・「神は愛する者たち、つまり、ご計画に従って召された(そのような)者たちには、万事が益となるよ

うに共に働くということを、私たちは知っています」(28節)と言われています。

うめく神は、私たちと同じ現実に立ちたもう方でありますが、同時に、私たちのいるところから、私たち

を連れ出し、神のみ心にふさわしい形に変えてくださる方でもあるというのです。さらに、と繰り返され

ているところに、そのような一つのところにとどまるのではなく、前進させてくださる神の導きを感じて

いることが分かります。そして神がそのように私たちの味方であり、私たちのためにありとあらゆる労苦

と犠牲を、惜しまずに、私たちをとらえ、愛したもうとするならば、私たちは何物も恐れる必要がないと

言えるのです。たとえ死においてもと、この聖書は語りかけているのです。

・「わたしは確信しています。死も、命も、天使も、支配するものも、現在のものも、未来のものも、力

あるものも、高いものも、低い所にいるものも、他のどんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエス

によって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのです」(38,39節)。

・神を信じる者は、この神の愛の勝利を信じているのであります。そしてその神の愛が勝利した神の国

確信し、そこに私たちが最終的には迎えられる者となることを信じているのであります。

・そういう意味で、どんな力も、「わたしたちの主イエス・キリストによって示された神の愛から、わた

したちを引き離すことはできない」と言われていることに、私たちは希望と慰めを与えられるのでありま

す。

・故人も、この何物によっても、つまり死によってさえも引き離し得ない神の愛にとらえられていること

を信じます。その神の愛によって、今神の平和のうちにあることを信じ、神のみ手にお委ねたいと思いま

す。

・残されたご遺族の方々に、神の慰めと平安が与えられますように。祈ります。