なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

「新しい天地」永眠者記念礼拝説教

「新しい天地」ヨハネ黙示録21章機4節、2012年11月4日(日)船越教会説教(永眠者記念礼拝)

・今日は教会歴によりますと「聖徒の日(永眠者記念日)」となっています。この船越教会でもこの日はこの教会の関係者で既に召されている方々を覚えて、永眠者記念礼拝を守ってきました。今年も例年と同じようにこの日の礼拝は永眠者記念礼拝となります。

・先ほど司会者に読んでいただきました、新約聖書ヨハネの黙示録21章1-4節から、慰めの言葉を与えられたいと願います。

・私は、かつて人間の死について、また死後の世界について、まじめに考えずにいて、神学校時代の教師から諭された経験があります。まだ私が30代の時でした。1974年から1977年まで私は母教会である紅葉坂教会の伝道師をしていました。その間一度だけ、主任牧師から婦人会の集会で話をするように言われて、したことがあります。私は聖書の個所を、「神は死んだ者の神ではなく生ける者の神である」(マタイ22:32、マルコ12:27、ルカ20:38)というところを選んでお話しをしました。その聖句から、私は、神は生ける者の神であるということを強調して語りました。その会に出ていた方の多くは、高齢になりご自分の人生の旅がもうすぐ終わろうとしている方々でした。私は「老いと死」については、ほとんど触れずに今いかに生きるかという課題の中で神信仰が何を語りかけているかということをお話ししたように思います。その集まりには、私の神学校時代の校長で、神学校を退職した後に、フェリス女学院の院長になって、横浜に住んでいました桑田秀延先生が紅葉坂教会に出席していて、その婦人会の集いにも出ていました。集会後桑田先生から私は呼ばれて、君は誰に話しているか分かっているかと言われ、キルケゴールを読みなさい。死と日々向かい合っているお年寄りの気持ちを理解しなければならないと諭されました。牧師になってから、6年くらいになっていた頃です。

・その後現在までの間に、私は牧師として沢山の方々の葬儀に関わりました。葬儀の司式をした人数も、数えたことはありませんが、100名、いや150名は降らないと思います。一人の人の葬儀を司式するということは、その召された人の家族・遺族との触れ合いがあるということです。そのような方々は、そのほとんどは愛する者を天上に送って悲しみに打ちひしがれている方々です。そのことを通しても、私は人間の死と向かい合わされてきました。その間私の肉親である、父、姉、兄、妹の死にも出会いました。自ずから死について、死後の世界について考えるようになってきました。

・さて、私たちは誕生から死に向かって一日一日を生きているわけですが、私たちは日々の生を、どのような状況において生きているのでしょうか。この一日の私たちの生きている時間というものは、どんな時間なのでしょうか。私たちは強いて時間とな何かということを考えることもなく、ただ毎日流されるようにして生きているかもしれません。あるいは、仕事の行き詰まりを抱えて、非常に重く辛い時間を感じている人もいるかも知れません。病と死に直面している人にとっては、痛みいや苦しみと自分の死の時を思い巡らして、その時間を悶々と過ごしている人もいるかも知れません。或いは一日の快楽の中に自らの存在を浸して、その日暮らしに徹している人もいるかもしれません。その人その人によって、その人が生きている時間をどう受けとめているかは様々でしょう。けれども、聖書か指し示している私たちの日々の時間について、ある人はこんな譬えで語っています。

・「ここに一つの家があり、この家は既に朝の光に包まれています。しかし、この家の窓には、厚いカーテンが下りているために、この家に住む者は、ただ闇の中に生きなければなりません。それは、神を信じている者にとっても、何も信じていない人にとっても同じです。ただ、このような状況を神を信じている者はこのように考えています。今も厚いカーテンで朝の光は家の中に入ってきませんが、信仰によって既にカーテンの外は朝の光が照り輝いているということを知っています。ですから、確かに今も厚いカーテンが閉まっていますので、家の中は暗闇ですが、この夜の闇の世界はもう過ぎ去っているということに気づいています。この家が既に朝の光に包まれているということこそ確かなことだということを知っています。そのような神を信じる者にとりまして、朝が既に来ているという知らせを確かなことだからです。その知らせは、単なる理想でも、美しい夢に過ぎないものでもありません。しかし同時に、神を信じている人は、自分がまだ闇の中に生きている者であることも忘れません。神を信じている者は、言わば、既に朝の光がさしているという現実と、厚いカーテンが窓にまだ下りているので家の中は暗闇で、その中に自分たちが生きているという現実という二つの現実の狭間で、私たちは闇の中にあって、やがてカーテンが取り払われ、朝の光が家の中に満ち溢れる日を待ちつつ生きていきます」。ですから、神を信じている者は、(神の御心の現れるのを)待ちつつ、祈りつつ、急ぎつつ(なすべきことをなしつつ)生きる」と言われています(井上良雄)。

・実は先ほどお読みしました、ヨハネの黙示録の言葉は、黙示録の著者が黙示というある種の想像力によって、朝の光が家の中に満ち溢れる日のことを語っているものではないかと思います。もう一度読んでみます。

・「見よ、神の幕屋が人の間にあって、神が人と共に住み、人は神の民となる。神は自ら人と共にいて、その神となり、彼らの目の涙をことごとくぬぐい取ってくださる。もはや死もなく、もはや悲しみも嘆きも労苦もない。最初のものは過ぎ去ったからである」。ここでの「最初のもの」とは、先ほどの譬えでは「厚いカーテンが下りている暗闇の部屋」になるでしょう。つまりこの世の歴史ということになります。

・この黙示録に描かれているのは、神を信じている人が、神さまによって導かれる最終目的地と言ってもよいでしょう。そこでは、人と人との間に神さまが共にいてくださり、神が人と共に住み、人は神の民となるというのです。そして、その時には、死や悲しみや嘆きや労苦からも解き放たれるというのです。私はそういう将来を思い描くことができることに、深い喜びを感じているものです。

・富田正樹さんという人は、「信じる気持ち『はじめてのキリスト教』」という本で、こういっています。

・「神を信じている人とは、『自分の人生の物語が、何者かの見えない手によって導かれているのではないか』ということを、信じようとしている人たちのことです。/そして、これからの人生も何者かが自分の人生を、長い目で見て、きっとよい方向に導いてくださるだろうということに賭けている人たちとも言えます。私たちの人生がトラブルに直面したとき、神が直接手をくだして助けてくれるということはありません。しかし、長い目で見れば、そのトラブルにも実は意味があったのだと受け取ることが、信じる人にはできます。/このように、神は私たち自身の心に働きかけて、人を動かしてゆく、いわば私たちの心のなかに住んでいる良心、心や愛や強さを引き出す存在なのです」と。

・では、この神による最終目的地は、それを信じる者にとってはどのようなものなのでしょうか。1970年代にある人がキリスト教信仰を批判して、「観念と現実の逆転」ということを言いました。それは、今日のこの黙示録に描かれている終わりの世界ということからすれば、この終わりの世界がキリスト教信仰では現実に考えられ、「厚いカーテンが下りている暗闇の部屋」に譬えられています、私たちの現実の日々の生は、ある意味で本当の現実ではないのだということです。従って、このような考え方からは、日々の現実と真正面から向かい合う姿勢を、私たちから失わせて、ただただ終わりの世界である「天国」への憧れによって、現実逃避的な生き方しか生まれません。60年代後半から70年にかけて、ベトナム戦争が激しくなり、70年の安保改定や大阪万博等がある中で、キリスト者の中には戦時下と同じように、信仰にとって神との関係が第一で、この世である社会の問題は信仰者の関わるべきことではないという二元論によって、これらの問題に向かい合うことを避けた人たちがいました。そのような人のキリスト教信仰を「現実と観念の逆転」と言ったのだと思います。

・この黙示録の描く終わりの世界は、キリスト者にとってそのような現実逃避を促すものなのでしょうか。そうではありません。私たちは、この終わりの世界がイエスによってこの現実の世界に既にもたらされていることを信じています。そしてこの終わりの世界はいつか神さまによって究極的に実現するという信仰を与えられています。しかし、「厚いカーテンが下りている暗闇の部屋」であるこの現実世界は、人間の欲望を駆り立てる権力と資本によって、また私たちの自己中心性によって踏みにじられている世界でもあります。イエスは私たちと同じひとりの人としてのこの現実世界に生き、その生涯と十字架と復活によって、あの終わりの世界である神の支配する神の国に生きる希望と喜びの道を示してくれているのです。

・とすれば、最初に紹介した譬えを語った人のように、既にイエスによってこの世の闇が乗り越えられていることを確信すると共に、あの終わりの時を信じ、その終りの時の到来を「待ちつつ、祈りつつ、急ぎつつ、なすべきことをなしつつ生きる」ことへと、私たちも招かれているのではないでしょうか。

・最後に、人は死ぬとどうなるのでしょうか。高村光太郎は「死ねば死に切り。自然は水際立つ」と言いました。死んだら人間はそれで終わりだ。自然に帰るだけだということでしょうか。けれども、聖書では、私たちは死んですべてが終わるのではなく、死もまた神の最終目標に至る神の導きの中にあると言えるでしょう。その意味で、死もまた、神の新しい創造の世界に至る一里塚に過ぎません。とすれば、私たちにとって、誕生から死までのこの地上における私たちの人生は、黙示録の著者が象徴的に示してくれているように、神の新しい創造の世界という未来に向かって、日々死に、日々生きる(生まれ変わる)そのプロセスの中にあるということになります。それは、今生きている者にとっても、既に召されている者にとっても、歴史が神によって終わる時まで、そのような神の未来に向かってそれぞれの時を過ごしているのではないでしょうか。生者はこの地上で、与えられた賜物と環境の中で、死者は神のみもとにあって、その時を待つのであります。

・とすれば、私たち生きている者は、既に召された方々の思いをくみ取りながら、いつか神さまの前に共に立つ日の、和解と平和を喜び合う希望をもって、与えられている私たちの人生を最後まで歩むことが許されているのではないでしょうか。