なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

マタイによる福音書による説教(16)

 久しぶりにこのブログに記事をアップします。この半月ほど何かと忙しく過ごしていましたので、しば

らくお休みしました。



    「平和をつくり出す人々」マタイによる福音書5章9節、
    
                    2018年11月11日(日)船越教会礼拝説教


・平和については、その大切さについて私たちは繰り返し語っていますし、また、それなりに平和を創り

出す行動もしていると言えるでしょう。この船越教会では、教会としも横須賀平和センター宣言を掲げ

て、平和を創り出していきたいと願っているわけです。


・ここで、改めてその横須賀平和センター宣言を朗読して見たいと思います。


「私たちは、先の戦争に対する責任を自覚し、いのちを脅かす貧困、差別、原発、軍事力をはじめとする

あらゆる暴力から解放されて、自由、平等、人権、多様性が尊重される平和な世界の実現を求め、共にこ

の地に立つことを宣言します。    

                    2013年・クリスマス 船越教会一同    
2
                    013年10月20日改訂、1990年05月20日

       <平和をつくり出す人たちは幸いである。マタイ福音書5章9節>」。


・この船越教会の横須賀平和センター宣言にも、今日のテキストであります、マタイによる福音書5章9節

が引用されているのであります。そのことは、この山上の説教の<平和をつくり出す人たちは幸いであ

る。彼らは神の子と呼ばれるであろう>(口語訳)新共同訳では、<平和を実現する人々は、幸いであ

る。その人たちは神の子と呼ばれる>という、イエスの祝福の言葉に基づいて、私たちは平和を創り出す

者として、この地に立つことを誓っているのではないかと思います。


・そこで今日は、このマタイによる福音書5章9節から、イエスが言う<平和を実現する人々>とは、どの

ような人なのかについて、改めて考えてみたいと思います。


・このイエスの言葉は、平和を称賛する平和について語っているだけの言葉ではありません。E・シュ

ヴァイツアーは「平和への賞賛については、もはや悪の力や攻撃によって脅かされない生に対する人間の

憧れが隠されているが、これこそが、人が人に対して狼であること(もっともご存知のように、狼そのも

のは狼に対して狼ではない)を超えることができるという憧れである」と言っています。イエスは私たち

に平和を称賛し、平和への憧れを持てと語っているのではありません。イエスのこの言葉では、「平和を

実現する人々は、幸いである」と言われており、平和を創り出す者について語っているのです。


・平和を語る人は多いと思います。権力者も平和を語ります。安倍首相の発言の中にも平和とう言葉がし

ばしば出てきます。けれども、一方では、安全保障を理由に、安保法制を成立せて、集団的自衛権の行使

の道を開き、日米軍事力同盟の強化を進め、防衛予算を増大させて、アメリカから高価な武器を購入して

います。これらは戦争のための準備です。安倍首相は軍事力を背景とした力による平和を求めているのか

も知れません。イエスの時代のローマ帝国も「パックス・ロマーナ」と言って、権力者であるローマ皇帝

は、「ローマの平和」を誇ったと言われています。このローマの平和は軍事力によって、ローマ帝国が占

領したところには戦争は起こらないという、政治的な安定を意味します。戦争が繰り返されて、疲弊した

民衆にとっても、この政治的な安定を意味するローマの平和であっても、有難いと思ったに違いありませ

ん。


・しかし、イエスの語る平和はそのような偽りの平和ではありません。どちらかと言えば、旧約聖書で考

えられている神の平和と言ってよいでしょう。旧約聖書では、人間の悪の克服は、本来ただ神の力によっ

て為しうると考えられています。ですから、平和を創造するのは、神ご自身なのです。神は平和の創造主

です。その神の平和は、「あらゆるものを包括する何ものかとして、またすべての者が言葉の最も深い意

味において幸福である共同生活の状態として描かれ」ているのです。


・イエスの誕生を祝うクリスマスでよく朗読されるイザヤ書11章1節以下には、このように記されていま

す。≪エッサイの株からひとつの芽が萌えいで/その根から一つの若枝が育ち/その上に主の霊がとどま

る。/・・・/彼は主を畏れ敬う霊に満たされる。/目に見えるところによって裁きを行わず/耳にする

ところによって弁護をすることはない。/弱い人のために正統な裁きを行い/この地の貧しい人を公平に

弁護する。/・・・/正義をその腰の帯とし/真実をその身に帯びる」(イザヤ11:1-5)。


・そいう平和の王の到来を語り、イザヤ書では続けて終末に到来する世界の豊かなイメージが描かれてい

ます。≪狼は小羊と共に宿り/豹は子山羊と共に伏す。/子牛は若獅子と共に育ち/小さな子供がそれを

導く。/牛も熊も共に草をはみ/その子らは共に伏し/獅子も牛もひとしく干し草を食らう。/乳飲み子

は毒蛇の穴に戯れ/幼子は蝮の巣に手を入れる。/わたしの聖なる山においては/何ものも害を加えず、

滅ぼすこともない。/水が海を覆っているように/大地は主を知る知識で満たされる/その日が来れば/

エッサイの根は/すべての民の旗印として立てられ/国々はそれを求めて集う。/そのとどまるところは

栄光に輝く≫(イザヤ11:6-10)。


預言者イザヤは、神がこの地上に来られるその日が来たら、平和の王によって支配される神の国が実現

し、その神の国のイメージとして、このように語っているのではないかと思います。イエスも恐らくこの

旧約の思想を、御自身の心深くに受け入れていたのではないでしょうか。私にはそのように思えてなりま

せん。


・イエスは、このような神の支配としての、「「あらゆるものを包括する何ものかとして、またすべての

者が言葉の最も深い意味において幸福である共同生活の状態として描かれ」る神の国の到来を信じて、こ

の「平和を実現する人々は、幸いである」と語ったのではないでしょうか。平和は、人と人とがわけ隔て

られている状態がなくなって、人と人とが和解の内に連帯することによって実現します。共感をベース

に、共に苦しみ、共に喜ぶ、共感・共苦・共喜による共生、そのように私たちが他者である隣人と共に生

きること、それこそが平和ではないでしょうか。福音書の5000人や4000人の供食の物語には、そのようは

平和が物語られているように思われます。


・人と人とを隔てる壁がなくなり、私たちの中にある敵対関係が乗り越えられて、文字通り神の支配の下

に人と人とが平和に暮らす世界、それこそが、平和を実現する人々が造り出そうとしているものなのでは

ないでしょうか。


・そして「平和を実現する人々」「その人たちは神の子と呼ばれる」と、イエスは続けて語っています。

「呼ばれる」は未来形です。「この未来形は重要である。神の息子たちとしての(そして娘たちとして

の)存在が未来において初めて与えられ、そうして初めて彼らはそのように名付けられるのである。神の

息子、娘とは、神に完全に身を委ねている人々であり、ちょうど子どもが両親に対してそうするように、

神自身を存在基盤とする人のことである。この存在基盤は神支配において初めて到達されるのであり、あ

らゆる他の存在基盤が消え去った時に初めてそうなるのである」。現実のこの世の生活において、神に完

全に身を委ねた神の子(息子、娘)として、私たちが生きようとすれば、私たちは非現実に生きる者とし

て、また夢を見る者として、人々から一蹴されるに違いありません。


・「この現世の条件のもとで、この祝福の言葉は平和創造者(平和を実現する人々)に神支配への扉を開

く。この言葉は、ただ単に世界に広がる次元における平和行為だけではなく、まさに日々の労苦のもとで

の平和行為が将来を切り開くことを指示している。不和はただ単に国際政治の状況だけでなく、言葉と業

における暴力行為の形において、そして区別と排除の形において日常を形成している。ここでもこの開か

れた扉を見ることが重要である」(E・シュヴァイツアー)。


・この約束されている神の息子、娘としての未来は、ただ未来として待望するだけではなく、今、私たち

はこの現実の世界の中で、軍事が支配し、富める者が支配する世界の中で、また、消費が神のごとく信じ

られている世界の中で、神に身を委ねた神の息子、娘として生きる力でもあるのではないでしょうか。


・<平和を実現する人々は、幸いである。その人たちは神の子と呼ばれる>との、イエスの祝福の言葉を

改めて噛みしめたいと思います。