なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

新しい年に向かって(12月29日説教)

 「新しい年に向かって」イザヤ49:7-13、ヨハネ黙示録21:22-22:5
                       2013年12月29日(日)船越教会礼拝説教

・2013年の最後の日曜日の礼拝です。一年が終わり、新しい年に向かうこの時に当たり、私たちイエスを信じ、イエスに従うキリスト者として、聖書から与えられる希望によって、新しい年に向かう姿勢を確認したいと思います。

・現在、東北大震災の被災地及び被災者の方々への復興支援の遅れ、格差社会の広がり、安倍政権の右傾化、この数日間でも、安倍首相の靖国神社参拝や仲井眞沖縄県知事辺野古埋め立て申請の承認ということもあり、この日本社会は益々大変厳しい状況になりつつあります。その中で、その厳しさに押しつぶされるのではなく、全ての人々が平和で安心して暮らすことのできる、イエスを遣わしてくださった神が支配する神の国の社会の灯を、新しい年もまた、小さくとも輝かし続けていきたいと願います。そのために、今日はイザヤ書49章7節以下のところから、メッセージを与えられたいと思います。

イザヤ書49章は第二イザヤの預言で、紀元前587年から約半世紀の間、イスラエルの民がバビロニアに捕囚されていた時のものだと言われています。イスラエルの民は、イスラエルの民を通して全ての民が神の救済、解放に与るべく、その使命を与えられた、神ヤハウエによって選ばれた民でした。しかし、他の世俗的な民族と同じように、権力者である王による国家形成を選んだために、覇権主義的な大国であったアッシリアバビロニアによって国が滅ぼされてしまい、人々は捕囚の民になってしまったのです。北王国は紀元前721年にアッシリアによって、南王国は同587年バビロニアによって滅ぼされ、主だった人々は捕囚の民になりました。

・捕囚の民はどのような生活をしていたのでしょうか。日本の国によって強制連行されて来た韓国・朝鮮人の方々が、戦後日本社会の中でどのように生きて来られたのか。その在日の方々の生活は、バビロニアでのイスラエルの捕囚の民と共通するところがあるのではないでしょうか。1969年4月に神学校を出て私が牧師になって最初に働いた教会の地域には、在日の方が多く住んでいました。私たち家族もその地域のアパートに住んでいましたが、近くに夫婦で小さなビニール工場を経営している在日の家族がいらっしゃいました。朝早くから夜遅くまで働いていました。小さな工場にはいつも白い粉のような煤煙が満ちていました。健康にはよくない環境でした。小さなこどもさんも5,6人いたように思います。最後の子が男の子で、男の子が生まれるまで出産を続けたというような話を聞いたことがあります。日本人が嫌がる仕事をして、何とか生計を支えていたのでしょう。在日の方の中には、パチンコなどの仕事で大儲けしている人もいるかもしれませんが、そのような人は全体としてはごくわずかでしょう。日本の国でナショナリズムが強くなってきたりしますと、在日の方々への攻撃が厳しくなります。現在でも、朝鮮人学校への補助金打ち切りやヘイトスピーチが問題になっています。バビロニアの捕囚の民も同じような状況にあったのでなかいかと思われます。そういう状況の中で、捕囚のイスラエルの民はバビロニアからの解放を待ち望んでいたに違いありません。

イザヤ書49章は、ひとりの僕を通して神が捕囚の民を解放すると共に、イスラエルの民だけではなく、全世界の民を解放することを、一つの幻として語っているのです。今日読んでいただいた箇所の前の所に(49:5,6)、このように記されています。「今や、主は言われる。/ヤコブを御もとに立ち帰らせ/イスラエルを集めるために/母の胎にあったわたしを/御自分の僕として形づくられた主は/こう言われる。/わたしはあなたを僕として/ヤコブの諸部族を立ち上がらせ/イスラエルの残りの者を連れ帰らせる。/だがそれにもまして/わたしはあなたを国々の光とし/わたしの救いを地の果てまで、もたらす者とする。」ここには、この僕によって、神はイスラエルの民の帰還だけでなく、この僕を「国々の光とし、わたしの救いを地の果てまで、もたらす者とする」と言っているのです。

・そして、また、このようにも主は言われるというのです。「わたしは恵みの時にあなたに答え/救いの、日にあなたを助けた。/わたしはあなたを形づくり、あなたを立てて/民の契約とし、国を再興して/荒廃した嗣業の地を継がせる。/捕らわれ人には、出でよと/闇に住む者には身を現せ、と命じる」(49:8,9)と。そして僕のもとに集まった「彼らは家畜を飼いつつ道を行き/荒れ地はすべて牧草地となる。/彼らは飢えることなく、渇くこともない。/太陽も熱風も彼らを打つことはない。/憐れみ深い方が彼らを導き/湧き出る水のほとりに彼らを伴って行かれる」(49;9,10)と。そのような彼らのところには、遠くから近くから、世界の各地から人々が集まって来るというのです。そして、「天よ、喜び歌え、地よ、喜び躍れ。/山々よ、歓声をあげよ。/主は御自分の民を慰め/その貧しい人々を憐れんでくださった」(49:12)というのです。

・ここには、主の僕の使命と神の救済・解放の出来事が記されています。ダビデ、ソロモンのような王によるイスラエルの民の解放ではなく、神が選び立てた主の僕と、彼のもとに集まって来たバビロン捕囚によって打ちひしがれた人々による神の救済・解放の出来事です。この主の僕についてもこのように記されています。「イスラエルを贖う神、主は/人に侮られ、国々に忌むべき者とされ、/支配者らの僕とされた者に向かって、言われる。/王たちは見て立ち上がり、君侯はひれ伏す。/真実にいますイスラエルの聖なる神、主が/あなたを選ばれたのを見て。」と。主の僕自身が、彼のもとに集まってくる虐げられた人々と同じように、「人に侮られ、国々に忌むべき者とされ」だと言うのです。

・このような第二イザヤの幻によれば、この世界に平和の満ち溢れるシャロームな社会は、神に選び立てられたひとりの僕とその僕の下に集まる人々によってつくられるということが語られているように思います。そしてその僕も僕のもとに集まってくる人々も、この世の権力の中枢にいる人々、またそのような人々に同伴している人々ではなく、むしろこの世の権力によって打ちひしがれている人々であり、そのような人々と共に生きようとする人たちであるというのです。

新約聖書の人々は、この僕をイエスと考え、イエスの下に集まる人々である弟子集団を教会と考えたのではないかと思います。それは、今日のイザヤ書での主の僕とその僕の下に集まった人々が、イエスとイエスの弟子集団としての教会ではないかと思います。

・けれども、私たちが教会をイメージする時には、宗教集団としての組織のように思いがちではないでしょうか。礼拝堂があり、牧師と信徒がいて、日曜日毎に礼拝が行われるところというように、です。ですから、ある人はこのように言っています。「特に、都会の教会は、その会堂の建築費や牧師の謝礼の募金でいそがしくなって、内向きになってしまう。各個教会は牧師と会堂を確保するには大きな力が必要である。そのために一生懸命努力しているので、キリストの弟子にとって最も大事なことをおそまつにしてしまう。シャロームのために働くよりも、教会の維持の方が中心となってしまう」(『これからの日本の宣教~発想の大転換~』147-148頁)。そういう危険が私たちにもあると思います。

・ここで言われているような「都会の教会」を基準にするならば、船越教会はその基準を踏み外してしまった教会と言えるかも知れません。そこで、これから私たちは、ここで言われているような「都会の教会」にもう一度なっていこうとするのではなく、「キリストの弟子にとって最も大事なことをおそまつにしてしまわない」、つまり「シャローム(イエスの平和)のために働く」教会づくりをめざしていかなければならいと思うのです。そのためには、教会のイメージを変えなければなりません。教会は牧師が中心でも、役員が中心でも、その教会に長年信仰生活を続けている信徒が中心でもありません。教会は、イエスを中心に、みんなが車座になってイエスから学び、イエスを信じ、イエスのめざした義と平和と喜びに満ちた神の国の実現を祈り求めて生きる人々の集まりだからです。そこに集まる人は、初めての人も皆対等な存在です。幸い船越教会には会堂がありますから、私たちは集まる場所を与えられています。少人数の集まりの良さも感じています。ただそこで自己満足してしまってはならないと思うのです。

・もう一つ、船越教会では、今年のクリスマスに改訂した平和宣言を新しく掲げましたが、私たちはそれぞれが自分の与えられた場所で、平和を造り出す者として、さまざまな社会の問題に関わり、そこで証言していくことを大切にしてきています。そうすることによって、すべての人の命と生活を大切にする平和な社会の形成を願って働いています。

・けれども、一方、私たちは「全ての人を弟子とするというヴィジョン」を軽視してきたのではないでしょうか。少なくとも私自身の中にはそういう傾向が強くあったように思っております。マタイによる福音書の最後のところにある、いわゆる「大宣教命令」のことです。「さて、十一人の弟子たちはガリラヤに行き、イエスが指示しておかれた山に登った。そして、イエスに会い、ひれ伏した。しかし、疑う者もいた。イエスは近寄って来て言われた。「わたしは天と地の一切の権能を授かっている。だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」(28:16-20)。

・平和の実現には、キリスト者としての私たちの証言と共に、平和の主イエスを信じて、イエスに従って生きる人々、新しい民の成長が不可欠であることが、聖書には語られているように思います。その意味で、私たち自身がイエスに倣って、イエスの証言者として生きると共に、「すべての民をわたしの弟子にしなさい」という課題も、軽視してはならないと思います。ただ洗礼を受けてイエスの弟子になることは、その人自身の主体的な決断です。私たちが出来ることは、イエスに倣って生きる私たちの生きざまによって、またイエスの福音の素晴らしさを伝えることによって、イエスを信じ、イエスに従って生きる弟子集団としての教会に身近な人を招き、イエスと共に生きていく群れに加わってもらうことです。

・先ほど私は、「教会は、イエスを中心に、みんなが車座になってイエスから学び、イエスを信じ、イエスのめざした義と平和と喜びに満ちた神の国の実現を祈り求めて生きる人々の集まりである」と申し上げました。そのような集まりとしての教会は、既存の社会の中にあって、地域社会でも、家族社会でも、企業社会でも、勿論国家社会でもありません。一つの新しい社会と呼んでもよいコミュニティーです。「み国を来たらせ給え」と祈りつつ、神の国の前触れとして、神の国の実現を待ち望んでいる人々の群れです。個として平和の主イエスの証言者として生きるように努めると共に、そのコミュニティー、新しい社会の一つとしての船越教会の交わりに、来たるべき2014年も参与していきたいと願います。