なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

黙想と祈りの夕べ通信(329)復刻版

 黙想と祈りの夕べ通信(329)復刻版を掲載します。2006年1月のものです。


          黙想と祈りの夕べ通信(329[-16]2006・1.15発行)復刻版


 10日にあった常置委員会で、5人の按手礼志願者の面接がありました。5人に折角質問が出ているのに、

常置委員の中で面接のあり方についての議論が始まり、面接を通して神奈川教区において教団の教師とし

てその働きを共に担っていくための相互理解の機会がそがれてしまいました。また、志願者の中にはこの

種の質疑応答を、無意味に考えている人もあるようです。教区総会でも按手礼志願者の質疑応答がありま

すが、そのことが教区総会に来てくれた按手礼を喜ぶ在任教会の信徒の躓きになるというので、総会での

質疑応答は無しにして欲しいというのです。私は、たとえどんな質問が出ても、それに堂々と答えている

ところを信徒の方が見れば、その教師への信頼が増しこそすれ、教区総会での質疑応答がそこに来てくれ

た当該教会の信徒の躓きになるとは思えません。この種の発言や考えには、基本的に私たちがお互いに問

い・問われる呼びかけ合う関係であり、その呼びかけに応答する、答え・答えられる関係であることに対

する無理解があるように思います。私たちは呼応関係を繰り返す中で、信頼関係が醸成されていきます。

そして醸成された信頼関係に基づいて、さらに深い対話に入ることができます。そのようにして、ちょっ

とやそっとでは崩れることのない信頼関係が相互の間に作り出されるのです。規則だけを遵守していれば

いいというものではありません。

 上記の私の発言に続いて、一人の方の発言がありました。ちょうど12月25日のクリスマスの日、名古屋

の30年近い一人の友人が亡くなった。小学生だった子供を通しての母親同士の繋がりから、彼女と友人に

なった。私は友人としての他者から自分が変えられると思っているが、今回彼女が亡くなって、自分の中

での彼女の大きさに改めて気づかされた。11年前に私たちが名古屋から横浜に移って来てから、一度だけ

彼女は横浜に来てくれた。その時既に彼女は乳癌を患っていた。彼女は10年近く癌を抱えて生活してい

た。元々身体が丈夫な人ではないので、名古屋にいる頃から私は時々彼女の手伝いに出向いていた。身体

的には彼女は弱く、私は強い人という関係だった。彼女は結婚してからずっと名古屋の家を守る伝統に従

って生活した。舅姑によく仕えた。横浜に来た時も、旅行は若い時以来したことがないというので、旅行

かばんもなく東京にいる息子を訪ねがてら私の所に来たときもビニール袋だった。私は横浜に来てから、

年1,2回名古屋に行ったときに必ず彼女を見舞ってきた。彼女が亡くなって見て、私が彼女を支えてい

たのではなく、私が彼女に支えられていたことが分かった。彼女はクリスチャンではなく、仏教の家でそ

の仕来りを守っていた。彼女は病気が長かったせいか、自分が亡くなったら、誰に連絡し、どうするかを

夫に託していた。死に対して彼女は冷静に対処した。私は健康で動けることに過信し、彼女のような隣人

の存在に気づけないところがあったように思う。彼女は弱そうに思えるが、実は強い人だったと思う。そ

の彼女を通して自分をもう一度見つめなおしなさい、と言われているように思う。彼女は家での生活を夫

に支えられて最後まで過ごした。三日だけ病院に入院し、病院で死んだ。今までいろんな人を天国に送っ

てきたが、彼女の存在は自分とって本当に大きかったと思っている。

 また別の方の発言がありました。私は今日の聖書の箇所ヨハネ福音書2:1-11を思いめぐらしていた。

黙想に入る前にふと思い浮かんだのは、自分の中の闇とは何かである。良いぶどう酒を最後まで取ってお

いたということが気になる。酒飲みからすれば、良いぶどう酒は先に飲む。それが逆なのは何故か。後か

ら質のよくない酒を出すということは、誤魔化し、不信感、あきらめということと繋がっている気がして

きた。酔っ払って来て、どうでもいいやーという人間の心の隙間を利用する価値判断で人を騙す。その人

に対して誠実でない。酔っ払っても良いぶどう酒を出すということは、その人に対してどこまでも誠実に

対することを意味する。今日の聖書研究会で北村牧師は、イエスは一人を大切にすることによって、すべ

ての人を大切にしたと話された。自分の心の闇は、どこかであきらめる、誤魔化すグレイな自分ではない

か。熱くもなく冷たくもない、ぬるい自分がある。力を失いかけている自分が。いろいろな問題に対して

自分の価値判断で決めつけて逃げてしまいたくなる自分があるが、そうではなく誠実に関わっていかなけ

ればならないと思う。