なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

船越通信(546)

船越通信、№546 2022年12月25日(日)北村慈郎

 

  • メリー・クリスマス!! 今年も主の降誕の日を迎えました。暗やみの中の光としてお生まれになった主イエスを、今ここでの、私たちの生きているこの現実の生においてお迎えし、心から誉め称えたいと願います。
  • 18日(日)は礼拝後、京急田浦駅前で「ウクライナに平和を!」のスタンディングをしました。12:07-12:51、8人参加。募金3,683円。書名1筆。募金は、11月分(3、305円)と教会員の募金を合わせて、8,000円をユニセフに送ります。ユニセフに送った募金は、合計4,9000円(4月7,000円、5月10,000円、6月10,000円、10月14,000円、12月8,000円)になります。スタンディングの後、この日は船越教会に6人が戻り、クリスマス・カードにメッセージや名前を書く人、他の仕事をする人、それぞれですが、その後散会しました。私は、その後関田先生の家族葬の葬儀次第を印刷して、午後4時過ぎに船越教会を出て、鶴巻に帰りました。この日は鶴巻に着いても、いつものようにのんびりできずに、関田先生が帰天してから考えていた先生の葬儀説教をまとめました。最終的には、19日(月)のお昼ごろに完成しました。
  • 19日(月)は、説教が完成した後、ヒムプレイヤーなど先生の葬儀のためにもっていくものを揃えて、キャリアカーに入れました。鶴巻温泉駅を午後4時過ぎの電車で大網に向かいました。新宿から総武線に乗り換え錦糸町で快速に乗り換えて千葉まで行きました。千葉から外房線に乗り変えて、大網に着いたのが午後7時過ぎでした。用意していただいた大網駅前のホテルにチェックインし、荷物を部屋に置いてから、外に出て夕食を食べる所を探しましたが、なかなか見当たらず、やっと見つけたお店が寿司屋でした。お寿司を食べてホテルに戻り、部屋でゆっくりくつろぎ、早めに寝ました。
  • 20日(水)は8時半少し前にK牧師が車で迎えに来てくださり、同じホテルに宿泊していた関田先生のお連れ合いと次女の方と共に葬儀場まで乗せていただきました。そこでしばらく休んだ後、9時から納棺式を行いました。納棺式の中で、先生の体を棺に入れる前に、女性の納棺師の方が、寝間着姿の関田先生から寝間着を脱がせ、体をふいて、ワイシャツを着せ、ネクタイをし、背広姿に変えました。顔のひげもそり、髪も整え、眼鏡をかけました。眠ってはいますが、生前の関田先生の姿そのものです。そしてご家族の方と私も加わり、先生の体を棺に納めました。その後讃美歌Ⅰ編320番を歌い、お祈りをして納棺式を終えました。10時から葬送式です。この関田先生の葬送式の式次第は、今まで何十年と私が続けて来た「故〇〇〇〇葬送式」という表題を改めて、「召関田寛雄さん葬送式」としました。これは、17日(土)に日帰りで出た近江平安教会での私の友人の連れ合いの葬送式(近江平安教会の場合は告別式となっていましたが)式次第の表題に倣って、そうしたのです。ただ葬送は葬りの式ですから、天に召された関田寛雄さんと、最後のお別れをすると言う意味では、お別れを意味する告別式の方がよかったかも知れません。葬送式の説教では、先生の最後の著書である『目はかすまず 気力は失せず~講演・論考・説教~』の序「『老い』を生きるための黙想」(『福音と世界』2019年5月号)に基づいて、私なりに語らせてもらいました。葬送式には、私とK牧師を除いて、家族親族14名が参列しました。K牧師には聖書朗読と祈祷をお願いしました。葬送式を終えて、皆で棺にお花を入れました。先生の姪御さんでしょうか、この方は最近の寅さんについて書かれた本を二冊棺に入れました。聖書も入れましょうかという方もいましたが、家族の方も私も、関田先生は、聖書は頭の中にはいっているでしょうからと言って、聖書は棺に入れませんでした。その後その葬祭場を出棺して、火葬場に向かいました。火葬場に着いて、お別れの部屋で火葬前式を行い、献花をして荼毘に付しました。その後お骨上げをした後、一度葬祭場に戻り、近くのファミリーレストランで先生のご家族の方々と、今後のことを打ち合わせて、私はK牧師に大網駅まで送ってもらい、午後4時半ごろの電車乗って、鶴巻に午後7時過ぎに帰ってきました。
  • 既に「関田寛雄牧師が召されるに至った経過」については、日本基督教団川崎戸手教会ホームページに出ていますが、ここにも記しておきます。「発端は透析をしている病院の血液検査の結果、貧血ということがわかり、千葉の病院で内視鏡の検査を予約。胃からの出血があり、貧血になっているのではないかとのことで、/12月8日(木):千葉の病院で、腹水(エコー)と胃の検査(内視鏡)を受け、両方とも異常なしとのこと。/12月9日(金):透析。検査結果を報告。大腸検査をすすめられたが、関田牧師は断る。/12月10日(土)青山学院短期大学後援会でクリスマスメッセージ。一度千葉に帰り、その後、神奈川に向かい、12月11日(日)の礼拝奉仕に備える。/12月12日(月)透析。輸血をすすめられ、12月13日(火)に予約。/12月13日(火)早朝、体調不良を感じ、ご自身で救急車を呼ばれた。成田の病院へ搬送される。発熱(肺炎を起こしているとのこと)、PCR検査・陰性、輸血を受け、透析のことを考え、透析を受けている大網の病院に救急車で運ばれる。その時は意識もはっきりしていた。/12月14日(水)輸血、透析をしてもらい、少し回復したが、午後になり、血液中の酸素量がだんだん減って来て、酸素吸入をしているが、苦しそうな息遣いになる。医師より家族に連絡するように言われる。次々とご家族の方々が到着して声をかける。午後10時12分医師によって臨終を告げられる。その後北村慈郎牧師も来て、詩篇23編を読んで祈る」。
  • 21日(水)夕方に私の名古屋時代の教会の教会員で94歳の方の帰天の電話をもらいました。コロナに感染していたために、火葬を先にして、年が明けてから後日葬儀ということになりました。
  • 22日(木)は国会前の座り込みの日でしたが、午前中鶴巻は雨でしたし、私も少し風邪気味でしたので、用心して座り込みには行きませんでした。その日の夜には寿地区活動委員会がありましたが、そちらも委員会が開かあれるなか伝道所には行かず、Zoomで参加しました。