なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

荒野の声(1)あきらめではなく、「未来の意志としての楽観主義」を!(鶴巻通信24)

2022年が終わり、2023年の新しい年を迎えるに当たって。

 

鶴巻通信(24)

 

荒野の声(1)

 

あきらめではなく、「未来の意志としての楽観主義」を!!

 

「地を見渡せば、見よ、苦難と闇、暗黒と苦悩、暗闇と追放。今、苦悩の中にある人々には逃れるすべがない」(イザヤ書8章22-23節)

 

 ローズンゲンの12月6日の聖書箇所イザヤ書8章16-23節の読んでいて、この言葉に出会いました。この言葉を読んで、何だか今の世界の現実を言い表しているのではないかと思わざるを得ませんでした。船越教会の礼拝では、司会者や献金当番の祈りには、毎回のようにこの世界の破滅的な状況に触れる言葉があります。ロシアによるウクライナへの軍事侵攻をはじめ、気候温暖化による干ばつや洪水という自然災害、グローバル・サウスの人々の貧困、経済格差やコロナウイルス感染による生活苦によって苦しむ人々に思いを寄せた祈りです。以前からそのような祈りがありましたが、コロナウイルス感染とロシアによるウクライナへの軍事侵攻以降、そのような世界で苦しむ人々に思いを寄せた祈りが顕著になってきたように思います。

 

 このことは、今まで私たち人間総体で築いてきた社会が行き詰まりを見せていて、そこから脱皮する道も定かでない状況の中で、希望を持てず、私たちの中に仕方ないというあきらめの気持ちが蔓延しているのではないでしょうか。

 

 ボンフェッファーは『主のよき力に守られて~一日一章~』でこのように記しています。

「楽観主義は、本質的に、現在の状況についての見解に左右されない。それはむしろ一個の生命力であり、他の者があきらめていても希望をいだく力、すべてが失敗したと思われる時にも、頭を高く保つ力、反動に耐える力、未来を決して敵に譲り渡さず、むしろ自分の未来を要求する力である。楽観主義の中には、確かに、愚かで臆病なものもある。もちろん、そのような楽観主義は、厳しく斥けなければならない。しかし、「未来への意志としての楽観主義」は、それがたとえ何度誤ろうとも、軽蔑すべきではない。なぜならそれは、病によって決してそこなわれることのない生命の健康さだからである」(p.555~p.556)。

 

 あきらめに打ち勝つことの出来る「未来への意志としての楽観主義」をもって、この国家的、集団的、個人的暴力によって行き詰った社会の中で、すべての人の人権が認められる平和な社会を切り拓くために、小さくとも歩み続けていきましょう。