なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

「幼子イエス」ルカによる福音書2章21-40節(1月1日(日)礼拝説教)

1月1(日)降誕節第2日礼拝(10:30開始)

 

(注)讃美歌奏楽はインターネットでHさんが検索してくれました。

 

⓵ みなさん、おはようございます。今から礼拝を始めます。しばらく黙祷しま

しょう(各自黙祷)。

② 招きの言葉 「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」。            (ヨハネ3:16)

③ 讃美歌  18(「心を高くあげよ!」)

http://www.its.rgr.jp/data/sanbika21/Lyric/21-018.htm

④ 主の祈り  (讃美歌93-5A)を祈りましょう(各自祈る)。

⑤ 交 読 文   詩編84編6-13節(讃美歌交読文93頁)

        (当該箇所を黙読する)

⑥ 聖  書   ルカによる福音書2章21-40節(新約104頁)

        (当該箇所を黙読する)

⑦ 祈  祷(省略するか、自分で祈る)

⑧ 讃 美 歌  469(善き力にわれかこまれ)

http://www.its.rgr.jp/data/sanbika21/Lyric/21-469.htm

⑨ 説  教  「幼子イエス」         北村慈郎牧師

  祈  祷

 

新しい年が始まりました。一日一日は変わらないのですが、新しい年が明け染めた1月1日という日は、それだけで私たちに何か希望を呼び起こしてくれる日に感じられます。しかも、2023年の1月1日の本日は日曜日ですから、この年は私たちキリスト者にとっては礼拝から始まるのです。神の前に身を整えて、この一年の歩みを始めていきたいと思います。

 

私は、「なんちゃって牧師の日記」というブログをしています。そこに船越教会での礼拝説教や船越通信を掲載していますが、その他にも、たまに「鶴巻通信」という形で、いろいろなことを書いています。一昨日の2022年12月30日も、私は、新年を迎えるにあたっての私自身の思いとして、「あきらめではなく、『未来の意志としての楽観主義』を!」という文章を掲載しました。そんなに長い文章ではありませんので、はじめに、それを紹介させてもらいたいと思います。

 

あきらめではなく、「未来の意志としての楽観主義」を!!

「地を見渡せば、見よ、苦難と闇、暗黒と苦悩、暗闇と追放。今、苦悩の中にある人々には逃れるすべがない」(イザヤ書8章22-23節)

ローズンゲンの12月6日の聖書箇所イザヤ書8章16-23節を読んでいて、この言葉に出会いました。この言葉を読んで、何だか今の世界の現実を言い表しているのではないかと思わざるを得ませんでした。船越教会の礼拝では、司会者や献金当番の祈りには、毎回のようにこの世界の破滅的な状況に触れる言葉があります。ロシアによるウクライナへの軍事侵攻をはじめ、気候温暖化による干ばつや洪水という自然災害、グローバル・サウスの人々の貧困、経済格差やコロナウイルス感染による生活苦によって苦しむ人々に思いを寄せた祈りです。以前からそのような祈りがありましたが、コロナウイルス感染とロシアによるウクライナへの軍事侵攻以降、そのような世界で苦しむ人々に思いを寄せた祈りが顕著になってきたように思います。

このことは、今まで私たち人間総体で築いてきた社会が行き詰まりを見せていて、そこから脱皮する道も定かでない状況が背後にあると思われます。そのことは、同時に、希望を持てず、私たちの中に仕方ないというあきらめの気持ちが蔓延しているのではないでしょうか。

ボンフェッファーは『主のよき力に守られて~一日一章~』でこのように記しています。「楽観主義は、本質的に、現在の状況についての見解に左右されない。それはむしろ一個の生命力であり、他の者があきらめていても希望をいだく力、すべてが失敗したと思われる時にも、頭を高く保つ力、反動に耐える力、未来を決して敵に譲り渡さず、むしろ自分の未来を要求する力である。楽観主義の中には、確かに、愚かで臆病なものもある。もちろん、そのような楽観主義は、厳しく斥けなければならない。しかし、「未来への意志としての楽観主義」は、それがたとえ何度誤ろうとも、軽蔑すべきではない。なぜならそれは、病によって決してそこなわれることのない生命の健康さだからである」(p.555~p.556)。

あきらめに打ち勝つことの出来る「未来への意志としての楽観主義」をもって、この国家的、集団的、個人的暴力によって行き詰った社会の中で、すべての人の人権が認められる平和な社会を切り拓くために、小さくとも歩み続けていきましょう。

 

ルカによる福音書の1章、2章のイエスの誕生物語の中には、今日のテキストであるルカによる福音書2章20-40節ですが、飼い葉桶の中で生まれた幼子イエスの神殿奉献の物語も記されています。

「さて、モーセの律法に定められた彼らの清めの期間が過ぎたとき、両親はその子を主に献げるため、エルサレムに連れて行った。それは主の律法に、『初めて生まれた男子は皆、主のために聖別される』と書いてあるからである」(2:22-23)と記されていますように、両親は、幼子イエスエルサレム神殿に連れて行き、神に献げる奉献の儀式をしてもらったと言うのです。

ルカによる福音書のこの幼子イエスの神殿奉献物語の中に、二人の老人が登場しています。一人はシメオンという信仰の人で、男性です。もう一人はアンナという女性の老預言者です。シメオンについては、「この人は正しい人で信仰があつく、イスラエルの慰められるのを待ち望み、聖霊が彼にとどまっていた」(25節)と言われています。信仰の人は、あきらめの人ではありません。シメオンの生きていた紀元前後のユダヤローマ帝国の属国として悪名高いヘロデ大王が支配していました。マタイによる福音書のイエスの誕生物語の中で、東方の博士がイエスの誕生をヘロデ大王に報告しないまま、自分の国に帰ったことを知ったヘロデ大王は、イエスが誕生したベツレヘム一帯の、イエスと同じころに生まれた男の子を皆殺しにしたと言われています(マタイ2:16-18)。背後にはローマ皇帝がいて、直接的にはこのようなヘロデ大王の支配するユダヤは、先ほどのイザヤ書の預言の言葉が当てはまっていたに違いありません。

「地を見渡せば、見よ、苦難と闇、暗黒と苦悩、暗闇と追放。今、苦悩の中にある人々には逃れるすべがない」(イザヤ書8章22-23節)

その中でもシメオンは、「イスラエルの慰められるのを待ち望み」と言われていますようにと、あきらめずに神への信仰によって希望を持っていたのです。そして、神殿奉献のために来た幼子イエスを腕に抱き、シメオンは神をたたえてこう言ったというのです。「主よ、今こそあなたは、お言葉どおり/この僕を安らかに去らせてくださいます。/わたしはこの目であなたの救いを見たからです。/これは万民のために整えてくださった救いで、/異邦人を照らす啓示の光、/あなたの民イスラエルの誉れです。」と。

84歳になっていた老預言者アンナも、「神殿を離れず、断食したり祈ったりして、夜も昼も神に仕えていたが、そのとき、近づいて来て神を賛美し、エルサレムの救いを待ち望んでいる人々に幼子のことを話した」と言うのです。このアンナも、エルサレムの救いを待ち望んでいる人々も、決してあきらめてはいませんでした。

シメオンの言葉の中に、幼子イエスを祝福して、母親のマリアに語った言葉があります。先のシメオンの預言が「救い、光、誉れ」と非常に明るい面を示しているのに対して、今度はそれとは対照的に幼子の受難と死を予告しています。34節、35節です。「御覧なさい。この子は、イスラエルの多くの人を倒したり立ち上がらせたりするためにと定められ、また、反対を受けるしるしとして定められています。――あなた自身も剣で心を刺し貫かれます。――多くの人の心にある思いがあらわにされるためです」。このシメオンが母マリアに述べた、この幼子イエスが、「イスラエルの多くの人を倒したり立ち上がらせたりするために定められ、また、反対を受けるしるしとして定められて」いて、「多くの人の心にある思いがあらわにされる」ということは、イエスは、ある人にとっては、その人がつまずき倒れる石であり、イエスを受け入れる人には堅く立つゆるがない石なのです。従って、シメオンの言葉≪イスラエルの多くの人を倒したり立ち上がらせたり≫とは、イエスを拒むか受け入れるかで人々の間に分裂が起きると言われているのです。それゆえ、イエスはまさに反対を受けるしるしとして、神と人間の間においた者である、と。イエスは反対を受けるしるしとして定められ、その結果、多くの人々のイエスに対する疑いや悪意があらわにされると言うのです。つまり、イエスの受難と死は、多くの人のイエスに対する疑いや悪意があらわされることによって、その人間の罪と悪から私たちが贖われる救いの道を開いてくださるのだと言うのです。

イザヤが語っているように、「地を見渡せば、見よ、苦難と闇、暗黒と苦悩、暗闇と追放。今、苦悩の中にある人々には逃れるすべがない」は、今の私たちの時代と社会を語る言葉でもありましょう。この死が覆うところで、仕方ないとあきらめてしまったら、私たちはその死の力にのみ込まれるだけです。けれども、その暗闇に思えるこの世の現実の中で、その暗闇をつくり出す罪人として私たちを、そこから救い出し、義と平和と喜びとしての神の国を望み見て、生きる者へと導いてくださったイエスを信じて、私たちは希望を持って、あきらめないで、シメオンやアンナのように、今ここで、生きることが許されているのではないでしょうか。

サッカーの好きな人は、カタールで開催されたワールドカップの日本のスペイン戦をご覧になった方もあるかと思います。ゴールポスト横に転がったボールを日本の三苫薫がアシストして、田中碧がゴールして2点目をあげて、日本はスペイン戦に勝利しました。この三苫薫のアシストがすばらしく、ほとんどボールがコートの外に出ている状態で蹴って、それを受けた田中碧がゴールしたのです。この三苫薫のアシストは、コートから見るとボールはコートラインを出ているように見えますが、真上から見ますと、かすかにボールがコートラインにかかっているのです。ビデオ判定で認められたのです。この三苫薫のアシストは、最後まであきらめないでボールに食らいつくことの大切さを、改めて教えてくれました。

関田先生も、最後の著書である『目はかすまず 気力は失せず~講演・論考・説教~』の序「『老い』を生きるための黙想」で、口語訳のピリピ人への手紙1章20節「そこで、わたしが切実な思いで待ち望むことは、わたしが、どんなことがあっても恥じることなく、かえって、いつものように今も、大胆に語ることによって、生きるにも死ぬにも、わたしの身によってキリストがあがめられることである」を黙想してこのように述べていま。「『喜びの手紙』と称されるピリピ人へのパウロの手紙は晩年の、しかも獄中で書かれた手紙である。彼が『切実な思いで待ち望むことは、わたしがどんなことがあっても恥じることなく…』と告白する所に私は深い共感を憶えるのである。私自身の生涯を回顧する時、恥多き躓きを残した経過であった。それはひとえにキリストのとりなしの憐れみによって生かされてきた道であった。今、病と弱さを得て思うことは、『生きるにしても死ぬにしてもこの身によってキリストがあがめられること』以外に生きる意味がないということだ。そこに主の前に『独り生きること』の恵みと喜びを思わざるを得ない。かくて残された生(今なお約束されている生と言うべきか)の内容は、罪のゆるしと傷の癒しを与えられた者として、使命に生きること以外にないのである」。

 

関田先生も、最後まであきらめてはいませんでした。先生はご自身の人生を、キリストのとりなしの憐れみによって生かされてきた道であると信じ、パウロと共に、「生きるにしても死ぬにしてもこの身によってキリストがあがめられること」以外に生きる意味がないと言われているのです。この関田先生の信仰は、ボンフェッファーが言うところの「未来の意志としての楽観主義」と言えるのではないでしょうか。

 

2023年を歩み出すに当たって、この新しい一年を、私たちも、また、この「未来の意志としての楽観主義」をもって歩み続けたいと切に願います。

 

主が私たちをそのように導いてくださいますように!

 

祈ります。

 

  • 神さま、今日は1月1日で、2023年の初めの日です。会堂での礼拝はお休みにしましたが、メール配信による自宅分散礼拝という形で、この日私たちも礼拝に与ることができますことを、心から感謝いたします。
  • 神さま、4年目に入りましたコロナウイルス感染からも、未だ解放されず、ロシヤによるウクライナ軍事侵攻も、もうすぐ1年になろうとしていますが、一向に終わりが見えません。グローバルと新自由主義経済によって、格差がますます広がり、この世界には貧困の為に苦しむ人々が多くなっています。また、世界共和国へという動きが自国主義によって阻まれて、国と国の関係が戦いと奪い合いに向かっているかに思われます。そこに軍事費の増強による武力で国を守る動きが顕著になっています。
  • 神さま、私たちは相互理解による平和と分ち合いによる共生の世界を、強く望んでいます。貧困や戦争によって、失われる命が一人も出ない世界を希求します。どうかそのような世界を創造するための働き人を、世界の各地に起こしてください。教会と私たちキリスト者が、率先してそのような働き人になることが出来ますようにお導き下さい。
  • 今さまざまな苦しみにある人々に、助けが与えられますように。あなたの命によって、苦しみを負いながらも、生きる希望が与えられますように。
  • 今日から始まる新しい一週の間、私たちの仲間の一人一人をその場にあってお守りください。
  • 新しい一週の全ての人の歩みを支えて下さい。
  • この祈りをイエスさまのお名前を通してみ前に捧げます。  アーメン。

 

⑩ 571(いつわりの世に)

http://www.its.rgr.jp/data/sanbika21/Lyric/21-571.htm 

⑪ 献  金 (後日教会の礼拝が再開したら捧げる)

⑫ 頌  栄  28(各自歌う)                                                       

讃美歌21 28(み栄えあれや)

http://www.its.rgr.jp/data/sanbika21/Lyric/21-028.htm

⑬ 祝  祷

  主イエス・キリストの恵み、神の慈しみ、聖霊の交わりが、私たち一同の上に、また全ての人の上に豊かにありますように。     アーメン                      

⑭ 黙  祷(各自)

これで礼拝は終わります。