なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

「善にはさとく、悪には疎く」ローマの信徒への手紙による説教(69)

11月13(日)降誕節前第6主日礼拝(10:30開始)

 

(注)讃美歌奏楽はインターネットでHさんが検索してくれました。

 

⓵ みなさん、おはようございます。今から礼拝を始めます。しばらく黙祷しま

しょう(各自黙祷)。

② 招きの言葉 「全地よ、主に向かって喜びの叫びをあげよ。

喜び祝い、主に仕え、喜び歌って御前に進み出よ。」

詩編100:1-2)

③ 讃美歌   358(小羊をばほめたたえよ!)

http://www.its.rgr.jp/data/sanbika21/Lyric/21-358.htm

④ 主の祈り  (讃美歌93-5A)を祈りましょう(各自祈る)。

⑤ 交 読 文   詩編77編2-16節(讃美歌交読文83頁)

        (当該箇所を黙読する)

⑥ 聖  書  ローマの信徒への手紙16章17-24節(新約298頁)

        (当該箇所を黙読する)

⑦ 祈  祷(省略するか、自分で祈る)

⑧ 讃 美 歌   210(来る朝ごとに)

http://www.its.rgr.jp/data/sanbika21/Lyric/21-210.htm

⑨ 説  教   「善にはさとく、悪には疎く」        北村慈郎牧師

  祈  祷

 

通常の手紙では、最後の挨拶をして終わるのではないかと思います。パウロはローマの信徒への手紙(以下ローマ書)16章の1-16節で、ローマの教会にいる、パウロの知っている人々の名前を挙げて、それぞれによろしくと挨拶を記しました。この手紙を読んできた者にとっては、これでこの手紙は終わると思うのではないでしょうか。ところが、「兄弟たちよ、あなた方に呼びかける」(田川訳、新共同訳では「兄弟たち、あなたがたに勧めます」)と、パウロは、最後の挨拶に続けて、突然ローマの教会の人びとに向かって呼びかけて(勧告して)いるのです。

 

ある人はこのように言っています。「教会の人に挨拶を送れば、自然に、彼が今まで経験してきた多くの教会の問題が思い出されて、それを書かないではおれなくなったのであります。それで、この挨拶の間は、全く様子の違った勧めが入って来たのでしょう」と。そして、「丁寧に、自分の信仰の立場を語っていたパウロは、ここで、急に、経験の多い牧会者の立場に立ち、ローマ教会の人びとに、教会生活の、重要な問題を語ろうとするのであります。それは、あいさつとは、決して無関係ではありません。なぜなら、あいさつをおくるのは、その人びとの間に、真に平和があるようにと願うことだからです。パウロは、いわば、牧会者の権威をもって、勧めをしようとしているのであります。もし、きよい接吻が、礼拝の一部であったとすれば、この勧めも、礼拝の最後の祝福とともになされたと言えるかも知れません」(竹森)

 

もしそうだとすれば、パウロは、自分が設立したのではないローマの教会の人びとに対しても、異邦人伝道者として牧会の責任を感じていたということになります。14章には、食べ物や日のことで、自由な考え方をしている「強い者」が、それに拘る「弱い者」を軽蔑したり、「弱い者」が「強い者」を裁いたりし合うのではなく、互いをキリストにあって受け容れ合いなさいという勧めが語られていました。14章の場合には、ローマ教会に実際に互いに軽蔑したり、裁いたりし合っているという事実を、パウロが何らかの仕方で知っていて、書いたのかも知れませんが、ここにもパウロの牧会者として姿が現れていると言えます。今日のところは、コリントやガラテヤの教会などで、パウロが実際に直面した厳しい経験から、この勧めが語られているのでしょう。

 

17節後半<あなた方が学んだ教えに反して分裂や面倒をひき起こす者たちを警戒し、その者たちから遠ざかれ>(田川訳)。ここには、「警戒し」「遠ざかれ」(「滅ぼせ」とは言われていないことに留意!)と言われている人たちが教会の中にいることが語られています。「あなた方の学んだ教えに反して」と言われていますから、教会の中にいろいろな立場の人がいて、イエス・キリストの福音とは異なる考え方を持ち込んで、教会に分裂と躓きを与えていると言うのです。

 

これは、実際にパウロがガラテヤとコリントの教会で経験したことでした。イエス・キリストの福音と共に、ユダヤ教の伝統である律法や割礼も大切にするユダヤ主義的キリスト者の問題は、ガラテヤの信徒への手紙に記されています。また、自分はペテロに属するとか、自分はパウロに属するとかという分争は、コリント教会に起こっていました。またフィリピの信徒への手紙では、「キリストを宣べ伝えるのに、ねたみと争いの念にかられている者もいれば、・・・」(1:15)と言われていますから、伝道者の間にさえ、そういう醜い争いがあったと思われます。その他さまざまな問題によって、教会の中に分裂と躓きが起こり、パウロはそのために随分心を痛めていたと思われます。

 

パウロが、このように、教会の分裂や躓きを警戒し、そのようなことの起こらないように言っているのは、そういう問題に苦しんできたパウロの経験からであろうと思われます。それは、彼が、教会とはこのようにあってはならない、というような教えの上での議論から言っているだけではないと思われます。パウロは、そのような分裂や躓きが教会の中に起こる時に、そういう状態の悲しさや淋しさを、身をもって知っていたからではないでしょうか。そういう混乱のただ中にあって知った不幸、憂い、悩みから、教会の分裂や躓きを警戒し、そのようなことの起こらないようにと言っているのだと思います。キリストの教会を造ることが伝道であると考えていたパウロは、このことについては、とくに用心ぶかくならざるを得ないほどに、多くの残念な経験を持っていたのでしょう。

 

教会に分裂や躓きが起こるのには、原因があります。誰かがイエス・キリストの福音とは異なるものを教会に持ち込むからです。18節:<何故なら、そのような者たちは我らの主キリストに仕えるのではなく、自分の腹に仕えているのである。そして、うまい言葉や誉め言葉でもって、悪くない者たちの心を欺いている>(田川訳)。ここには、教会に分裂や躓きを起こす人は、「キリストに仕えるのではなく、自分の腹に仕えている」と、言われているのです。

 

それがどういう人なのかということは、フィリピの手紙の中でパウロがこのように語っていることから推測できます。3章17節以下ですが、「兄弟たち、皆一緒にわたしに倣う者となりなさい。また、あなたがたと同じように、わたしたちを模範として歩んでいる人々に目を向けなさい。何度も言ってきたし、今また涙ながらに言いますが、キリストの十字架に敵対して歩んでいる者が多いのです。彼らの行く着くところは滅びです。彼らは腹を神とし、恥ずべきものを誇りとし、この世のことしか考えません」(3:17-19)

 

ローマ書の16章17節では、「あなた方が学んだ教えに反して分裂や面倒をひき起こす者たちを警戒し、その者たちから遠ざかれ」と言われていますが、ここでは、「キリストの十字架に敵対して歩んでいる者が多い」と言い、「彼らの行き着くところは滅びです」と語られています。「遠ざかれ」は、相手を全面的に否定しているわけではありませんが、「滅び」は全面的な否定です。「彼らは腹を神とし、恥ずべきものを誇りとし、この世のことしか考えません」と言われているのです。神を崇めるのではなく、自分を崇めていると言うのです。全く反対です。パウロはこのフィリピ書の箇所で、神ではなく、自分を崇めている、このような人たちのことを語る時に、「今また涙ながらに言いますが」と言っているのです。それほどに情けない、残念なことだからです。信仰と言いながら、全く、その反対のことになってしまっているからです。

 

ローマ書では、そのような自分の腹に仕えている人々は、<うまい言葉や誉め言葉でもって、悪くない者たちの心を欺いている>(18節後半、田川訳)と言われています。それがどういうことなのかは具体的には、よくわかりませんが、ただそういうことによって、教会の中に分裂と躓きを与えていると言うのです。

 

しかし、ローマの教会にはそういうことは起こっていないと、パウロは思っていたようです。19節に<何故なら、あなた方の従順(についての評判)はすべての者たちにとどいている。それで私はあなた方のことを喜んでいるけれども、しかし、あなた方が善へと向う知恵者となり、悪に対しては純粋であるように、と欲している。>(田川訳、新共同訳は「あなたがたの従順は皆に知られています。だから、わたしはあなたがたのことを喜んでいます。なおその上、善にさとく、悪には疎くあることを望みます」)とある通りです。

 

ローマの教会については、パウロは、安心していました。もちろん、こういう分裂や躓きが起こるということでは、ローマの教会も決して例外とは言えません。しかし、この教会が信仰に対して従順であることは、彼が早くから聞いているのです。だから、安心しているのですが、それでもどうしても、「しかし、あなた方が善へと向う知恵者となり、悪に対しては純粋であるように、と欲している」(新共同訳「なおその上、善にさとく、悪には疎くあることを望みます」)と、一言(ひとこと)言っておきたかったのでしょう。

 

信仰の従順という言葉は、あいまいになりやすいものです。それは、はっきり言えば、福音の重要なことに対して忠実であるということです。たとえば、信仰のみによって救われるとか、神の栄光のために生きるとかいうような、どんな事情があっても忘れないで、これによって生きようとすることです。神の恵みによって罪が赦されるということを、古くさいとも不十分であるとも考えないということです。これは、漠然と信仰の生活をしていたり、教会に行っていることとは違うのです。これらの福音の主要な点を曲げたり、見失ったりすると、信仰生活は、全く空しいものになるのです。どんなに華やかそうに見えても、どんなに活動的であっても、混乱を招くことにしかならないのであります。

 

したがって、心から願わしいことは、こういう誘惑に勝つことであります。善にさとく、悪にうといというのは、ただ、善いことをするようにということではないのです。福音のためによいことです。福音を正しく知るためによいことをするのにさとくあることであります。甘言と美辞によって欺かれようとする時に、それが見抜けなければならないのです。そうして、福音から離れないようにすることです。信仰者が、善行において、誰にも負けない賢明さを持っていなければならないことは言うまでもありません。しかし、それはまた、根本的に、福音からわれわれを引き離そうという誘惑に勝つことでなければならないのです。そして、その上で、善については、専門家のように上手であり、悪については、全く無能な人間になることです。

 

この戦いは、教会の本質に関係のあるものであります。したがって、これは、神が見過ごしにされるはずはないのです。いや、本来は、神の戦いであると申してもいいのかも知れません。神をほかにしては、教会の平和を守ることはできないからです。しかも、こういう戦いをなさる神を、パウロは、平和の神と呼んでいるのです。平和の神という言葉は、パウロが何度も用いているものです(Ⅱコリ3:11,フィリピ4:9,Ⅰテサロニケ5:23)。また、平和の主(Ⅱテサロニケ3:16)という言い方もあります。それには、いろいろな意味がありましょうが、平和、あるいは、平安を与えて下さる神という意味が、大切なことでしょう。それならば、教会の平和を願う者は、その神に平和を求めねばならないのです。

 

しかし、神はどのようにして、教会に平和を与えて下さるのでしょう。神は、わたしたちが考えるように、平和を乱す人びとを相手にされるだけでなく、さらに根本的に、平和をくつがえすサタンを打ち破られると、パウロは言うのです。20節前半:<平和の神がサタンをあなた方の足元で速やかに打ちくだくであろう>(田川訳)。神が、諸悪のもとであるサタンを滅ぼして下さることなしに、わたしたちの罪の問題は解決しないということでしょうか。罪は、それほどに、底が深く、強力なものだからであります。平和の神のサタンに対する戦いのことを書いたら、どうしても、<我らの主イエスの恵みがあなた方とともにあるように>という祝福の言葉を、パウロは言わざるを得なかったのでしょう。

  (以上は、ほぼ竹森による)

 

21-23節は、口述筆記を請け負ったテルティオスの書き加え。22節でテルティオ自身が自分でこの手紙の口述筆記者であることを明記している。とすれば、自分が挨拶を送るのに、自分のまわりの人々(多分何らかの仕方でローマ教会の知り合いの人々)からの挨拶もついでに記したくなったものであろう。おそらく、口述筆記の清書(1:1-16:16)をテルティオがパウロにわたし、パウロがそれに自筆を書き添えて(17-20節)、送っておいてくれとテルティオにわたしたのを、残りの余白にテルティオが自分の挨拶を書き加えたものか。パウロの口述筆記が、相手側の名前だけを大量に並べて、こちら側の人間の名前を一人もあげないのは、もしかするとテルティオがそれに不満を持って、こちら側の名前も数人書き入れたものだろう(田川)と言われています。

 

自分の腹を神とする人の誘惑をはじめ、イエス・キリストの福音の真実から目を背けさせようとする様々な誘惑に打ち勝ち、神の平和を与えられて、私たちもまた、信仰の従順をもって、イエスに従って生きていきたいと願います。主がそのように私たちを導いてくださいますように。

 

  

祈ります。

 

  • 神さま、今日も会堂での礼拝を行うことができ、心から感謝いたします。
  • 神さま、イエス・キリストの福音の真実から目をそらす誘惑に打ち勝ち、私たちも信仰の従順を貫いて生きていけますようにお導きください。
  • 長期化しているウクライナへのロシアの軍事侵攻が、できるだけ早く終わりますように。国家間の対立緊張が高まっていますが、国を超えた人と人との交流が密となって、 対話による信頼を築き、国家の壁を開いて、平和な世界を造ることができますように、私たちを導いてください。
  • 私たちが造り出しているこの現代の世界において、さまざまな苦しみの中にある人びとを助けてください。
  • 今日から始まる新しい一週の間、私たちの仲間の一人一人をその場にあってお守りください。
  • 新しい一週の全ての人の歩みを支えて下さい。
  • この祈りをイエスさまのお名前を通してみ前に捧げます。  アーメン

 

⑩ 讃 美 歌     465(神ともにいまして)

http://www.its.rgr.jp/data/sanbika21/Lyric/21-465.htm

⑪ 献  金 (後日教会の礼拝が再開したら捧げる)

⑫ 頌  栄  28(各自歌う)                                                        

讃美歌21 28(み栄えあれや)

http://www.its.rgr.jp/data/sanbika21/Lyric/21-028.htm

⑬ 祝  祷

  主イエス・キリストの恵み、神の慈しみ、聖霊の交わりが、私たち一同の上に、また全ての人の上に豊かにありますように。     アーメン                      

⑭ 黙  祷(各自)

これで礼拝は終わります。