なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

ローマの信徒への手紙による説教(62)

9月18(日)聖霊降臨節第16主日礼拝(10:30開始)

 

(注)讃美歌奏楽はインターネットでHさんが検索してくれました。

 

⓵ みなさん、おはようございます。今から礼拝を始めます。しばらく黙祷しま

しょう(各自黙祷)。

② 招きの言葉 「希望はわたしたちを欺くことがありません。わたしたちに与えられている聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているからです」(ローマ5:5)

③ 讃美歌  151(主をほめたたえよ)

http://www.its.rgr.jp/data/sanbika21/Lyric/21-151.htm

④ 主の祈り  (讃美歌93-5A)を祈りましょう(各自祈る)。

⑤ 交 読 文  詩編119編73-80節(讃美歌交読文135頁)

        (当該箇所を黙読する)

⑥ 聖  書  ローマの信徒への手紙14章17-23節(新約294頁)

        (当該箇所を黙読する)

⑦ 祈  祷(省略するか、自分で祈る)

⑧ 讃 美 歌     377(神はわが砦)

http://www.its.rgr.jp/data/sanbika21/Lyric/21-377.htm


⑨ 説  教  「義と平和と喜び」           北村慈郎牧師

  祈  祷

 

先週の日曜日には、依頼されて三・一教会で「聖餐について」の説教をしました。その三・一教会の説教で、「今私は船越教会の礼拝でローマ書の講解説教をしていますが、ローマ書14章17節に『神の国は、飲み食いではなく、聖霊によって与えられた義と平和と喜びなのです』と言われています。この言葉が出ている文脈は、食べ物や日について、教会の中に考え方の違いがあって、お互いに軽蔑したり、裁いたりして分裂しているローマの教会の人々に対して、自分を絶対化しないで、相手を思いやって、共に生きていきなさいと勧めている箇所です。そのところで、『神の国は、飲み食いではなく、聖霊によって与えられた義と平和と喜びなのです』と言われているのです。『義と平和と喜び』とは、人権と平和が大切にされ、みんなが喜んで生きることができる、それが神の霊によって与えられる神の国であり、教会は神の国の現れではないかと、パウロは言っているのではないかと思います。私は、前線基地などと言うのは、戦争を想起させて、よい譬えではないのですが、教会は神の国のこの世における前線基地だと思っています」と言いました。

 

ほぼ同じことを、川島重成さんは今日のローマ書の個所の注解の中でこのように言っています。パウロは、今日のローマ書の箇所で、まず「神の国の本質はあなたがたが虚しく論争している食べるか食べないかというようなこと、つまり禁止された食べ物に関する規範と規則の教理体系とは関係がなく(ヴィルケンス)、『聖霊によって与えられる義と平和と喜び』であると言っているのである。…『義』は正しい行為ではなく、神の支配(マハト)である(ケーゼマン)。キリストにおいてわたしたちはその中にすでに入れられているのである。『平和』は終末において現実となる救いであるが、やはりキリストにあってすでにわたしたちに与えられている(ローマ書5章1節)。『喜び』は終末論的救いの確かさに対するあの歓喜であり(ローマ書8章35節以下)、やはりキリストにあってすでにそれを味わうことが許されている。総じて言えば『神の国』、『神の支配』は終末において完成するが、今ここでキリストの支配として先取り的に、すなわち希望において現在している。『聖霊によって与えられる義と平和と喜び』はすでにキリストにあって開始され、終わりの日に完成される神の支配のしるしなのである。それはエクレシア(教会)におけるキリスト教的交わりに具現される」と。

 

イエス・キリストを信じる者の交わりであるエクレシア(教会)において、神の国=神の支配」における終末論的な「義と平和と喜び」に、希望において先取り的にわたしたちは与っているのだ、というのです。

 

コリント教会にあっても、ローマ教会にあっても、人間の集まりですから、食べ物についてだけでなく、他にもいろいろな問題があったに違いありません。ユダヤ人と非ユダヤ人(異邦人)という民族的な出自の違い、性別の違い、大人と子どもの違い、知識の違い、ローマ社会であれば自由人と奴隷の違い、貧富の違い、他にも様々な違いをもった者が集まって、一つの交わりである教会を形成していたわけです。私たち人間が持つ相対的な違いを絶対化して、他を非難否定するとすれば、一つの交わりとしてのエクレシア(教会)は成り立ちません。ナチズムにおいてユダヤ人は殲滅の対象でした。天皇制国家であった日本において、朝鮮人や中国人は天皇の赤子である日本人と対等な存在ではありませんでした。違いを絶対化したときには、多様な人間が一つになることはできません。ですからナチズムに協力した教会(ドイツキリスト者)も戦時下の日本基督教団の教会もキリストのエクレーシア(教会)とは言えないものであったのです。

 

イエス・キリストを信じる人間の交わりとしてのエクレーシア(教会)は、神の国の前線基地として、神の国=神の支配のしるしである「義と平和と喜び」によって人と人とが結びついている交わりなのです。

 

そのことを受けて、パウロは18節・19節でこのように語っています。<この点においてキリストに仕える者は、神に喜ばれ、人間に対して検証された者なのである(バルトは「人間の前にも本物である」)。だから、我々は平和の事柄をこわしてはいけない。そして、お互いに対して建設することを>(18節、19節、田川訳)と。

 

パウロは、17節の「神の国は飲食ではない。義であり、平和であり、聖霊における喜びである」(田川訳)を受けて、「この点においてキリストに仕える者は、神に喜ばれ、人間の前でも本物であり」、人々に信頼されると言うのです。「だから、我々は平和の事柄(教会内の平和)をこわしてはいけない。そして、互いに対して建設することを(お互いに本物になることを)」追い求めようではないか、と言っているのです。ここでは明らかにパウロはキリストの教会の交わりのあり様を問題にし、その担い手である一人一人の信仰者がどのように仲間の一人一人に対して生きるのかを問題にしているのであります。それが「神に喜ばれ、人間の前で本物になる」というのです。

 

そして、パウロは、具体的な問題である「食べ物のこと」に戻って、このように語っているのです。<食べ物の故に神の業をこわしてはいけない。一切は清い。だが、(それに)障害をおぼえて食べる人にとっては、それは悪いものなのである。肉を食べず酒を飲まないのは良いことである。また何か兄弟が障害をおぼえるようなものを食べないのも、良いことである>(20節、21節、田川訳)。

 

ここでは、食べ物は「一切は清い」として、何を食べてもかまわないという「強い人」が、食べてはならない食物があることに拘る「弱い人」に対する配慮のあり方を具体的に表現したものとなっています。キリストがその人のためにも死に給うた、まさにその「弱い人」を破滅させないためには、「肉を食べず酒を飲まないのは良いことである。また何か兄弟が障害をおぼえるようなものを食べないのも、良いことである」と言うのです。

 

パウロは、このローマ書を書いた時には、実際にまだローマの教会に行ったことがないのですから、ローマ教会の信徒たちの中で「食べ物」の問題が、エクレーシア(教会)の交わりを破壊するほどのことなのか、よくわかってはいなかったと思います。それでもこのように語っているのは、コリントの教会でのこの問題がどんなに大きく、エクレーシア(教会)の交わりを破壊するものであるかを、パウロは経験していたからではないかと思います。ローマの教会にも非ユダヤ人(異邦人)だけでなく、ユダヤ人も信徒として共にいることを、パウロは知っていたからです。

<あなたは、あなた自身によれば、信仰をお持ちである。ならば神の前でお持ちなさい。自分が自分で(それが正しいと)検証したことについて自分自身を裁くことのない者は幸いである。食べる時に疑いを持つ者は、すでに断罪されている。信からではないからである。信からではないことは、すべて罪である>(22節、23節、田川訳)。

 

パウロは、<信仰の「強い人」と「弱い人」が互いに裁き合うことなく、「強い人は」「弱い人」の良心の痛みに配慮を示し、キリスト教的自由を愛として現し、神の業なるエクレシア(教会)の形成を追い求めるようにと勧告しているのである。しかしパウロはその勧告の究極の根拠として「キリストはその兄弟のために死んでくださった」(15節c)ことを考えている。だからこそ、弱い人が「罪に定められている」とまで言われている、その信仰のなさにもかかわらず、その人が滅びることがあってはならない、と主張しているのである。とすれば、23節の「すべて信仰から「出たの」でないものは、罪である」と言われる「信仰」とは、表面的には、罪に定められた人間の信仰、その意味で彼の確信、あるいは良心であるが、同時に突きつめたところ、かのキリストの信仰と解する以外にはないであろう。信仰の弱さ、あるいは信仰のなさのゆえに罪に定められるその「弱い人」が滅びるのを免れうるとすれば、その人のために死んでくださった「キリストの信仰」を身にまとう以外には道はない。人は実際にはあれこれ迷いつつも、「キリストの信仰」にあってその人なりに召され促されて、その都度決断し、行為していく他はない、そのことで、もはや自分を裁く必要のない幸いなる者と、その都度されていくのではなかろうか(22節b)。なぜならばイエス・キリストが裁かれるべきわたしたちのために、わたしたちに代わってすでに十字架上で裁かれ給うたからである>(川島)。

 

このようなイエス・キリストを中心とした信仰共同体としてのエクレーシア(教会)にいつて、私は先週の三・一教会での説教の中で、少し大胆にこのように言わせてもらいました。三・一教会では、聖餐について語りましたので、食卓共同体としてのエクレーシア(教会)を強調しました。そのエクレーシア(教会)についてこのように語りました。

 

「教会が神の国の前線基地であるというのは、教会は神の国の証言をその本来の使命としていることを意味します。私は、それがイスラエルの契約共同体に代わる、イエスを中心に据えた新しい契約共同体ではないかと思っています。イスラエルの契約共同体は、モーセ十戒が示しているように、ただひとりの神を愛し、隣人の命と生活を奪うことなく、互いに愛し合う、人間の共同体です。しかし、イスラエルであるユダヤ人は、モーセによって締結された神との契約に基づいたその契約共同体の形成において挫折してしまったのです。そこで神はイエスを私たちのところに遣わし、イエスによる新しい契約共同体を、この人間の歴史の中に起こすことによって、私たちを救済しようとされているのです。私は、そういう意味で、教会を「自立と共生の場」と呼んでいます。神の契約共同体の構成員は、何物にも束縛されない自由な、かけがえのない尊厳を持った存在として神との関係において、ただ神のみを愛する自立した存在です。同時に、他者である隣人との関係においては、隣人の命と生活を奪うことなく、神の前に対等同等な存在として、互いに愛し合う共生をめざすのです。それが新しい契約共同体としての教会のあり様です。そして私は、この教会のあり様は、国民国家によって分断されている現在の世界の中で起こる戦争を無化する命があると思っています。契約共同体としての教会は、国家の存在を無化し、違いをもった世界の人々を、誰一人除外することなく契約共同体の構成員として迎えることができます。「みんなちがって、みんないい」、みんなが持っている物を分け合って食卓を囲む、食卓共同体として世界の人々が一つになった時に、神の国は成就・完成するのではないでしょうか。

 

終末論的な信仰を持って、現在の世界を生きるキリスト者は、神との契約共同体である神の民の一員として、聖餐を、すべての人が招かれている、契約共同体である食卓共同体の象徴として行うことが求められているのではないかと、私は思っています」と。

 

ローマ書の14章でパウロが語っていることも、キリストを中心にした交わりとしての教会が強い者と弱い者の分裂によって壊されてしまってはならないとする、パウロの思いからではないでしょうか。その意味でパウロもローマの植民都市に教会を建設し、ローマの教会に手紙を書いて、自らのイスパニア伝道への拠点となってくれるように求めているのも、ユダヤ教に代わるキリスト教の伝道ということで、新しい宗教教団を世界に広げるということよりも、エクレーシアとしての教会の形成による人間の解放を求めていたのではないでしょうか。宗教教団としての教会の建設ではなく、交わりとしての教会である、イエス・キリストを信じる兄弟・姉妹団として、人間の解放、救済をめざす教会建設です。私が三・一教会での説教で語りました、イスラエルの契約共同体に代わる新しいイエスを中心とした契約共同体としての教会の建設と言ってもいいのではないでしょうか。

 

神の国は、飲み食いではなく、聖霊によって与えられた義と平和と喜びなのです』

人間解放としてのエスを中心とした交わりとしての教会に参与していきたいと願います。

 

 

祈ります。

 

  • 神さま、今日も会堂での礼拝を行うことができ、心から感謝いたします。
  • 今日は、ローマ書を通して、私たちの集まりである教会が世界大の人間解放の拠点であることを改めて教えられました。感謝いたします。宗教教団としての教会が衰退しても、交わりとしての教会に連なることが許されますように、私たちをお導きください。
  • ウクライナでの戦争が長引いています。そのために無辜の人々が犠牲になっています。一刻も早く停戦する知恵と決断を為政者に与えてください。
  • 気候変動による災害が世界に広がっています。そのために苦しむ人の多くは経済的に貧困な人たちです。競争社会から分かち合いの社会に、この世界が変わることができますように。
  • 今日本列島を大きな台風が横断しようとしています。既に奄美や九州南部はその影響を受けています。備えを十分にして、その災害を少しでも防ぐことができますように。
  • 今日から始まる新しい一週の間、私たちの仲間の一人一人をその場にあってお守りください。
  • 様々な苦しみの中で孤独を強いられている方々を支えて下さい。
  • 新しい一週の全ての人の歩みを支えて下さい。
  • この祈りをイエスさまのお名前を通してみ前に捧げます。  アーメン

 

⑩ 讃 美 歌    425(こすずめも、くじらも)

http://www.its.rgr.jp/data/sanbika21/Lyric/21-425.htm

⑪ 献  金 (後日教会の礼拝が再開したら捧げる)

⑫ 頌  栄  28(各自歌う)                                                       

讃美歌21 28(み栄えあれや)

http://www.its.rgr.jp/data/sanbika21/Lyric/21-028.htm

⑬ 祝  祷

  主イエス・キリストの恵み、神の慈しみ、聖霊の交わりが、私たち一同の上に、また全ての人の上に豊かにありますように。     アーメン                      

⑭ 黙  祷(各自)

これで礼拝は終わります。