(注)讃美歌奏楽はインターネットでHさんが検索してくれました。
⓵ みなさん、おはようございます。今から礼拝を始めます。しばらく黙祷しま
しょう(各自黙祷)。
② 招きの言葉 「希望はわたしたちを欺くことがありません。わたしたちに与えられている聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているからです」(ローマ5:5)
③ 讃美歌 17(聖なる主の美しさと)
http://www.its.rgr.jp/data/sanbika21/Lyric/21-017.htm
④ 主の祈り (讃美歌93-5A)を祈りましょう(各自祈る)。
⑤ 交 読 文 詩編127編」1-5節(讃美歌交読文144頁)
(当該箇所を黙読する)
⑥ 聖 書 ローマの信徒への手紙14章1-6節(新約293頁)
(当該箇所を黙読する)
⑦ 祈 祷(省略するか、自分で祈る)
⑧ 讃 美 歌 55(人となりたる神のことば)
http://www.its.rgr.jp/data/sanbika21/Lyric/21-055.htm
⑨ 説 教 「弱い人を受け入れる」 北村慈郎牧師
祈 祷
私たちのこの船越教会では、ほとんど問題にもならないと思われますが、パウロが設立したコリントやガラテヤの教会においては、明らかに重要な問題がありました。そして、おそらくパウロがローマの信徒への手紙を書いているローマの教会でも、同じように重要な問題であったと思われます。それは、食べ物や日をめぐって、その考え方の違う者同士が、相手を軽蔑したり、裁いたりし合っていたことです。
この問題は、日本の教会においてはお酒の問題で、お酒を飲む人が飲まない信者を馬鹿にしたり、飲まない信者がお酒を飲む信者を裁いたりということがありましたし、今も教会によってはあるかも知れませんが、それに近い問題と言えるかもしれません。
今日のローマの信徒への手紙(以下ローマ書)14章1-6節にはこのように記されています。食べ物については、「何を食べてもよいと信じている人もいますが、弱い人は野菜だけを食べています」(2節)と言われています。日については、「ある日を他の日より尊ぶ人もいれば、すべての日を同じように考える人もいます」(5節)と言われています。
これはおそらくパウロが関わっていた教会の中には、ユダヤ教徒から信者になった人と、非ユダヤ人(異邦人)で信者になった人がいて、その両者の考え方の違いが原因となって起こっている問題ではないかと思われます。
ユダヤ教以来、律法を守ることが非常に大切であると思っていた人びとが信仰を得るようになって、信仰生活でも、そういう律法的なことが必要であると考えたからであります。肉を食べることはよくない、だから野菜だけを食べる、この日はかの日よりも大事であるとか考えないではいられなかったのでしょう。その人たちは、もちろん、律法的な生活が正しいなどと思っていたわけではないでしょう。しかし、ユダヤ教徒としての長い間の習慣から、キリスト教徒になってからも、そんな風になっていたのかも知れません。
一方で、異邦人出身の信者がいて、彼ら・彼女らはユダヤ教徒出身の信者の食べ物や日についての考え方が理解できないわけです。異邦人出身者には、ユダヤ教が持っていたような律法はありません。それが、旧約聖書と関係のある大切なこととも思っていないわけであります。むしろ、自分たちは、イスラエルとしての特権がないのに救われたのですから、何の条件もなしに、ただ、信仰によってのみ救われるということが、ユダヤ人の場合よりもよく分かったのでしょう。また、そういう関係から、反動的に、ユダヤ人の律法的な生活を軽蔑したくなったのではないかと思われます。この人びとは、自分が、信仰の上では「強い者」であると信じていたのでしょう。
そういう二種類の人が、ひつつの教会の中にいるわけです。そうなれば、信仰の強い者から言えば、とても一緒にはやっていけないと言うか、さもなければ、信仰の弱い者を批評しながら、受け入れるということになるでしょう。そこで、パウロは、批評しないで、受け入れなさい、と勧めることになったのであります。
それが14章1節です。「信仰に関して弱い者を受け入れよ。議論だの批判だのに至らずに」(田川訳、新共同訳は「信仰の弱い人を受け入れなさい。その考えを批判してはなりません」)。
この箇所(14:1-6)には、「信仰の強い人」という言葉は出てきませんが、この1節の勧めが「信仰の強い人」に向けられていることは明らかです。パウロは15章1節で、「わたしたち強い者は」と言っていますので、パウロ自身はユダヤ教徒でしたが、「信仰の強い人」、つまり食べ物や日についてこだわらない立場にあることを明らかにしているのであります。
強い者が弱い者を受けいれることでは、しばしば、強い者の驕りが起こりがちです。自分がいかにも愛に富んでいて、弱い者を憐れんでやっているんだという思い上がりです。強い者は弱い者を受けいれなければなりません。弱い人の信仰を混乱させではなりません。しかし、もしそのことで強い者が、自分は信仰の上で優れているからだと思ったらどうでしょうか。肉など食べても、別に信仰の上では、何の差支えもないと思っている人は、肉を食べてはならないと考えている人と比べて、どれだけ、信仰の上で優れているというのでしょうか。異邦人出身の信者は、ユダヤ人出身の信者の場合のように、律法的なこととは無関係でしたので、たまたま、ユダヤ人出身の信者のように食べ物や日について、そのように信じやすい立場になかったというだけのことであるかも知れないのであります。
パウロは、このことに対して、実に明快な道を示しています。弱い者をなじって、拒んではならないのは、神が、この人々をさえ、受け入れておられるからである、と言うのです。ここに、この問題を解決する鍵をパウロは見出しているのです。
「事は、教会に関わることであります。教会の中で、強い者と弱い者が、どう生きるかということであります。それならば、何よりも第一に、だれが、教会を建てたかを考えて見る必要があるのではないでしょうか。だれが、この強い者と弱い者とを教会の中に集めたのか、ということであります。弱い者は、キリストの憐みによって、教会にいれられたのでありましょう。それならば、強い者が教会にいられるために、キリストの憐みは、必要なかったのでありましょうか。ここに、強い者が、自らかえりみて、確かに知っておかねばならないことがあるのであります」(竹森)。
弱い者も強い者も教会に入れたのは、イエス・キリストの憐みによる以外の何物でもないということです。人間的に優れた者があるからというわけではないのです。しかも、私たちのような汚れた人間が、教会の中に受け入れられるために、イエス・キリストの生涯と十字架と復活が必要であったということも忘れてはなりません。つまり、神が私たちを受け入れて下さることは、決して、簡単なことではなかったということであります。天地を揺るがすような大きな救いの業を、神は虫けらのように小さい罪人である私たちのために行ってくださったのであります。このようにして、はじめて、教会はできたのであります。そして、このようにして、はじめて、弱い者はいうまでもなく、強い者も、教会の中におることを許されているのであります。強いと思っている者、強いと言われている者ほど、このことを知るべきであります。そして、その意味では、弱い者と全く同じであることを、悟るべきであります。
「これが教会の成り立ちであるとすれば、このことは、教会のあらゆることにおいて生かされなければならないはずであります。そうでなければ、教会でなくなるおそれさえあるかも知れません。弱い者を受けいれなさい、という字と同じ字が、神は彼らを受けいれて下さっている、という文章にも用いられていることに注意すべきでありましょう。受けいれる、という言葉は、ごく普通の字であります。しかし、ここで用いられる時には、神が受けいれて下さったという事実から、その意味が定められたのです。それなら、強い者は、この事実に目を止め、それを思い、それによってへりくだらせられ、それに励まされて、弱い者を受けいれなければならないのであります」(竹森)。
パウロは、それを、どんなに願ったことでしょう。それで、15章で、この問題を繰り返した時に、「こういうわけで、キリストもわたしたちを受けいれて下さったように、あなたがたも互いに受けいれて、神の栄光をあらわすべきである」(7節)と言っているのであります。
4節でパウロは、当時の主人と召し使い(家内奴隷)の関係に譬えて、「他の家の奴隷を裁こうなどとは、あなたはいったい何者なのだ。その奴隷が立ったり倒れたりするのは、自分の主人によるのである。もしも彼が立つとすれば、主(=神)が彼を立たせることがおできになるからである」(田川訳、新共同訳は「他人の召し使いを裁くとは、いったいあなたは何者ですか。召し使いが立つのも倒れるのも、その主人によるのです。しかし、召し使いは立ちます。主は、その人を立たせることがおできになるからです」)と言っています。
ここでは「他の家の奴隷を裁こうなどとは、あなたはいったい何者なのだ」と言われています。3節bでは、「食べない者は食べる者を裁いてはならぬ」と、(肉を)食べない弱い人が、(肉を)食べる強い人を裁いてはならないと言われています。それに対してこの4節では、3節bのように限定的な意味ではなく、教会内の兄弟姉妹相互の関係を念頭において言われています。すなわち、当時広く認められていた奴隷制に譬えてですが、裁きは、共に一人の主人の支配下にある、つまり、自分の所有物ではなく他人の所有物である家内奴隷相互間にはありえず、家内奴隷に対する主人のみに許される権利であると言われているのであります。
「他の家の奴隷を裁こうなどとは、あなたはいったい何者なのだ」に続いて、「その奴隷が立ったり倒れたりするのは、自分の主人によるのである」(4節b)、「もしも彼が立つとすれば、主(=神)が彼を立たせることがおできになるからである」(4節c)と言われています。ここでは、裁きは神(そして主キリスト)の固有の業であることが暗示されています。そして、「主(=神)が彼を立たせることがおできになるからである」と言って、たとえ教会に属する者が「倒れる」ということがあったとしても、主によって再び立たせられるであろう、教会に再び受け入れられるであろう、主はそうしてくださるという信頼を、パウロは表明しているのであります。ケーゼマンは、「恵みは人間の過誤よりも強力である」と言っています(川島)。
だから、他の者は、この人のことに口をさしはさむべきではないのです。たとえ彼が倒れたとしても、弱くあったとしても、それは、その人の主人がよく知っていることで、他の者が、とやかく言うべきことではないのであります。むしろ、安心して、その人のことを、その主人にまかせることこそ、その弱い人に対する正しい態度なのであります。強い者はそのようにして彼を受けいれさえすればいいのです。「もしも彼が立つとすれば、主(=神)が彼を立たせることがおできになるからである」(4節c)からです。
ここでは、たまたま、話が、強い者の弱い者に対する態度ということでしたから、主キリストこそ、弱い者の主であることが強調されました。しかし、事実は、弱い者にも、強い者にも、主イエス・キリストこそ、まことの主なのであります。そして、どちらもこの主は、立たせることができるのであります。
信仰者であれば、強い者も、弱い者も、何かを食べる時には、信仰の立場から感謝して食べるのではないか、とパウロは言うのであります。「日を考慮する者は、主に対して考慮する。食べる者は主に対して食べる。何故なら神に感謝しているからである。食べない者が食べないのも主に対してであって、彼も神に感謝している」(6節、田川訳)と。同じように、何かを食べない時も、信仰によって判断して決めるのであります。ある日を重んじるとか、重んじないとかという時でも同じではないでしょうか。それなら、強い、弱いはともかく、信仰によってしていることは、主のためにしていることではないか、とパウロは言うのであります。そして、いずれの場合も、神に感謝しているのであります。それなら、この事について、強いて両方を区別する必要がどこにあるでしょう。強い者は、弱い者も受けいれなければならないのであります。
生活習慣や考え方の違いが、教会の交わりに分裂をもたらすことはよくあることです。私たち船越教会のように少人数で、教会として平和宣言を出して、立場がはっきりしている教会にはほとんど考えられないことかもしれません。分裂した教会はイエス・キリストの福音を証言するどころか、逆に傷つけてしまいます。ただ考えの違いを論争によって真実を求めていくことは分裂とは違います。福音とは何か、今この時代に福音を証しすることとは何かと問うで論じ合うことは、教会がこの時代に教会として立つために必要なことです。それとパウロが今日のローマ書の個所で語っている、教会の中で強い者が弱い者を蔑み、弱い者が強い者を裁くこととは違うとうことを踏まえて、今日のローマ書のパウロの言葉を受け止めたいと思います。
- 祈ります。
- 神さま、今日も会堂での礼拝を行うことができ、心から感謝いたします。
- 8月15日は戦後77年目の敗戦の日でした。現在ロシアのウクライナへの軍事侵攻による戦争の継続により、その戦争で殺される人々や生活を奪われる人々のことを思いますと、かつて私たちの国が犯した戦争加害のことを思わざるを得ません。しかし、8月15日に発せられた為政者の言葉には、被害につては語られても、加害につては沈黙しているとしか思えませんでした。どうかこの国も私たちも、二度と再び戦争をしない、世界に平和をつくり出すものにしてください。
- 今日は聖書から教会のメンバーの中にある蔑みと裁きによって、キリストの体である教会を傷つけている現実があることを示されました。どうかそのような負の現実を克服して、互いに受け入れ合うことができますように導いてください。
- 様々な苦しみの中で孤独を強いられている方々を支えて下さい。病の中にある者に癒しの力をお与えください。
- 今日から始まる新しい一週の間、私たちの仲間の一人一人をその場にあってお守りください。
- 新しい一週の全ての人の歩みを支えて下さい。
- この祈りをイエスさまのお名前を通してみ前に捧げます。 アーメン
⑩ 讃 美 歌 讃 美 歌 567(ナルドの香油)
http://www.its.rgr.jp/data/sanbika21/Lyric/21-567.htm
⑪ 献 金 (後日教会の礼拝が再開したら捧げる)
⑫ 頌 栄 28(各自歌う)
讃美歌21 28(み栄えあれや)
http://www.its.rgr.jp/data/sanbika21/Lyric/21-028.htm
⑬ 祝 祷
主イエス・キリストの恵み、神の慈しみ、聖霊の交わりが、私たち一同の上に、また全ての人の上に豊かにありますように。 アーメン
⑭ 黙 祷(各自)
これで礼拝は終わります。