なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

船越通信(529)

船越通信、№529 2022年8月21日(日)北村慈郎

 

  • 14日(日)は、前日メールでコロナに感染し、13日(土)午後に湘南国際村の施設に隔離されるという教会員の方がいて、コロナ感染拡大が身近に迫っている緊張感をもって礼拝に与りました。この日は礼拝後何もありませんでしたので、すぐ散会しました。私は講壇の花をいただいて、12時半過ぎには船越教会を出て鶴巻に帰りました。
  • 8月15日は帰天した連れ合いの父親が、戦死したとされる日です。実際には8月15日かどうかはわからないのですが、中国北部に出征していた連れ合いの父親は、敗戦直前の当時のソ連軍の南下のどさくさで亡くなったようです。連れ合いの祖母であり、養母でもあるその父親の母は、戦後長い間父親の帰還を、首を長くして待ち続けていましたので、その彼女の祖母には、祖母が死ぬまで父親の死の事実は知らされなかったようです。父親は彼女の出生は知っていましたが、一度も実際に彼女を見ることなく死んでいきました。戦後数年彼女は母親と暮らしていましたが、母親が結核療養所に入ったために、幼い頃から父親の祖父母、叔父家族と生活をするようになりました。祖父が亡くなった後、祖母は彼女を自分の養女にしました。そういう事情がありましたので、毎年8月15日前後になると、生前の連れ合いはいつもと違って、何となく落ち込んでいるように思われました。娘もそう思っているようで、私も娘も8月15日前後には今年もその連れ合いの落ち込みを思い出して、何となく重い気持ちで過ごしました。
  • 17日(水)に関田先生からお手紙をいただきました。その手紙の中には、<先日、たまたま富阪キリスト教センターの『紀要』第11号の「日本におけるキリスト教フェミニズム運動史研究」を読んでいたら、横田幸子さんの発言の中で、北村牧師の免職への怒りと共に「大泉教会の場合は、1982年に…教会規則では礼拝参加者全員が聖餐授与。東京教区北支区長、教団議長の許可を得ています」(65)と述べておられます(下線は私のもの)>とありました。この日先生は午前中透析をしていますので、夕方になってから先生にお電話して、大泉教会のことは私も知ってるとお話しました。、1999年3月の教会総会で紅葉坂教会が「聖餐は洗礼を受けた者が与る」という教会規則8条を削除し、その規則変更を教区を通して教団に申請しました。教区は内容をペンディングにして紅葉坂教会の規則変更申請書を受理し、教団に申請書を送りました。教団は内容をペンディングした申請書は扱えないと、教区に送り返してきて、教区からは紅葉坂教会に返してきました。それからしばらくして、大泉教会の場合は、礼拝参加者全員の陪餐を認める教会規則を教団は認めたという話を聞きましたので、当時の大泉教会の牧師だった横田勲さんに、私は個人的に手紙を出して、そのことの確認と大泉教会の教会規則を送ってもらいました。紅葉坂教会の教会規則変更申請の却下については、その時の教団執行部の状況では再度申請しても同じことになると思われたので、私は役員会で、紅葉坂教会としては変更した規則に従っていくことと、紅葉坂教会から教団にアクションは起こさない。教団からアクションがあったときは対応するが、その際紅葉坂教会は教団から出るように言われたら、教団から出て単立になることもあり得るが、紅葉坂教会からは教団から出ない。教団合同に紅葉坂教会も加わったのだから、その責任と課題は紅葉坂教会として負っていかなければならないからであるという主旨のことを、当時私は役員会で話しました。その後私の免職問題が起こった時に、洗礼を受けていない者にも陪餐を許す北村の聖餐執行は、教会規則第8条の変更が認められていないのだから、紅葉坂教会の規則違反でもあるという発言を教団側の人から聞いたことがあります。関田先生は、「可能ならば大泉教会の記録をなりを知らせて頂いて、今期教団総会に提起できないか」と思って、お手紙を下ったようですが、先生には、大泉教会のことは今後の運動の中でその可能性を探っていきたい旨お話ししました。それにしても関田先生が私の免職撤回のためにここまで考えていてくださることに感動し、力を与えられました。
  • 18日(木)は午前中鶴巻でも雨が降っていましたが、11時過ぎになると雨は止みました。国会前はどうか分かりませんでしたが、私は11半ごろに辺野古新基地建設反対の国会前座り込みの準備をして出かけました。午後1時少し前に、地下鉄の国会議事堂前駅に着き、地上に出ました。雨は上がっていましたが、官邸前の交差点の道路はまだ所々水たまりもあって、午前中は雨だったことが分かる程でした。参議院議員会館前のいつもの座り込みの場所には誰も来ていず、自分の手持ちの辺野古基地建設反対のグッツを壁に貼って、その前に一人で座り込みを始めました。この日は14:00から参議院議員会館で宗教者の集いがあると平和ネットのメールで知っていましたので、雨だったらそちらに参加すればと思ってきましたが、天気は回復していて、午後2時過ぎにはいつもの二人も座り込みに来ましたので、3人で最後まで座り込みました。途中宗教者の集いが終わって、私たちのところにI・AさんSさん夫妻とT・Aさんが来て、声をかけてくれました。I・Aさんは私の東京神学大学時代の一年後輩で、東大神問題で教授会から追い出された一人です。宗教者の集いで国会前に時々来ていて、大分前に座り込みに行っていた私と再会し、国会前で時々座り込んでいる私のところに彼が来て、声をかけてくれるようになっています。私の支援会にも入ってくれています。座り込みが終わり、この日は他の二人は夜の死刑執行反対の集会に行くというので、座り込みの場所で別れて、私一人で地下鉄国会議事堂前駅まで歩き、電車によって帰ってきました。
  • 8月16日の東京新聞朝刊の考える広場、「戦後77年、戦争と平和2022」で、詩人の谷川俊太郎が、「平和を続けるため、どうすればいいでしょうか」という問いに答えて、「自分の平和な生活を守る。それを中心に据えるしかないと思いますね。僕は国家というものをそんなに信用していないんです。国家単位で考えないで、自分単位で考えればいいんです。自分が何か一つ、はっきりした芯を持っていれば、いろいろ判断ができるでしょう。一人一人がそういう芯を持って判断することで、戦争を遠ざけることができる。そういうふうに考えるしかないですね。・・・」と言っているのに、戦時下の多くの信仰者が国家単位の考えに飲み込まれてしまったことを踏まえて、自戒を込めて共感を覚えました。