なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

ペンテコステ礼拝説教(関田寛雄)

 6月5日(日)ペンテコステの礼拝は、関田先生にお願いしました。その先生の説教が教会員の方によって文章化され、教会だよりに掲載されましたの、ここに転載いたします。

 

  「聖霊はひとりびとりに」使徒言行録2章1-11節  関 田 寛 雄                       

 

みなさんおはようございます。聖霊降臨日の礼拝を迎えることになりまして、この時代のただ中で、キリスト教会が聖霊を受けて教会として出発したというこの日のことを改めて振り返りながら、教会とは何であるのか、何のために存在しているのか、そのことをご一緒に学びたいと思います。

読んでいただきました聖霊降臨の不思議な出来事の物語、2章から始まりますけれども、その前段階に注目したいと思います。

その一つは、復活されたイエス様が「エルサレムから離れないで、前に私から聞いた父に約束されたものを待ちなさい」と、言い残された(1:4)。「エルサレムから離れないで」ということは弟子たちにとってどんなにか辛いことだと思うのです。十字架の悲惨な、イエス様の死の現場であるエルサレム。それをめぐってまたユダヤ教の団体の、イエス様のグループや弟子たちに対する迫害の恐れがある。できればエルサレムから離れて別のところで安心して生活したいと思うのではないでしょうか。でもイエス様は「エルサレムから離れないで」とおっしゃった。「痛ましい出来事の現場に、屈辱の十字架と迫害の現場に留まれ」とおっしゃっているわけです。これは「主なる神様からの約束を待つからこそ、イスラエルという、居づらい世界に、逃げたい世界に、敢えて留まれ」とイエス様はおっしゃっておられます。人生において、逃げたい、別の楽な平和なところに逃れていきたいという場面もあろうかと思いますけれども、イエス様は「聖霊を受けるためには、苦しい所、痛ましい所、悲しい所、寂しい所、辛い所に留まりなさい」とおっしゃっているわけです。どういうことだろうか。

二つ目にですね、弟子たちはイエス様の復活を経験して、マグダラのマリアからの証言もあって、イエス様が復活されたことは知ってはいるんですがね、ちっとも復活の喜びがありませんね。「イエス様は復活した」「そうか」「それでどうなんだ」っていうことですね。弟子たちの意識はですね、使徒言行録の1章6節以下にありますように「使徒たちは集まって、『主よ、イスラエルのために国を建て直してくださるのは、この時ですか』」と、相変わらずイスラエルの再建のためのイエス様なんですね。イスラエル民族の再建こそがイエス様に対する期待なんですね。その意識が、復活のイエスに直面していても、依然としてこういう認識しかなかった弟子たち。ですから本当の意味で、イエスの復活のことなど分かっていないわけですね。何のためのイエス様の十字架だったのか、何のためのイエス様の復活だったのかということを全然分かってない。それから喜びがない。むしろ民族の再建にまだまだこだわっている。イエス様はそれに対して、はっきりと自分たちのそういう意識について、方向転換を命ぜられます。世界に向かって伝道するんだ、ということで、特にこの1章の11節にですね、「二人の天使が言いました。『ガリラヤの人たち、なぜ空を見上げて立っているのか。』」なぜ空を見上げて立っているのか。イエス様はいつおいでになるのか。そういうイエス様との連綿たるのつながりをなお惜しみながら、です。

三番目にですね。1章の14節、「彼らは皆、婦人たちやイエスの母マリア、またイエスの兄弟たちと心を合わせて熱心に祈っていた。」と、こうですね。11人の弟子の名前とイエスの家族のことが出てきます。心合わせて祈っていたと。弟子たちにしてみれば、あの十字架の主イエスを見捨ててしまって、逃げてしまった。ペテロをはじめ、ユダもそうでしたけれど、とにかくイエス様の十字架の現場から逃げてしまって、主イエスを見捨ててしまった。それを恥ずかしいというか、悔いても悔いても悔いは尽きない。イエス様を見捨てたという事実。家族の方としてはですね、イエスの母マリア、兄弟たちは、「私たちの長男のイエスを見捨ててとんずらした弟子たち、どの面下げて家族の前に現れてくるのか」ということでしょう。ところが、弟子たちと家族が一緒になって、心を合わせて熱心に祈っていた。教会というのはこういうところだと、こういうところに聖霊が下るんだ、ということを聖書は語っていると思うのです。そこには深い深い罪の懺悔と共に、家族からの温かい許しの言葉があったと思います。お互いに涙ながらに、一緒になって聖霊を待ちながら祈っていた。こういうところに教会の姿が、原型があるかと思います。憎しみによって、教義の理解から独断によって、教会の分裂を引き起こす。それこそ権力によってですね、有無を言わさぬ形をもって一人の教職を追放するというような教会ではなくて、お互いの罪を許し合いながら、十字架の下で許し合いながら、一つになっていく教会が、ここに示されているのではないだろうか。そのようなところで聖霊降臨が始まったわけであります。

2章に入りますけれども、「五旬祭の日が来て、一同が一つになって集まっていると」、一つになっている。ところが、激しい風が吹いて来るような音がして、「炎のような舌が、分かれ分かれに現れ、一人一人の上に留まった。」一人一人の上に留まった、これはとても大切なところだと思います。およそ私たちがイエス様を信じ、その救いを信じ、今まで生きて参りましたけれども、一人ひとりは、それぞれ違う信仰を持っていると思うんですよ。どこかの教団が言っているようなワンパターンな信仰ではなくて、一人一人が御霊から与えられる独自の信仰があるはずなんです。その独自の信仰こそが本物でしょう。ワンパターンの、ドグマを飲み込むような信仰ではなくて、自分の人生の痛みやら、辛さやら、淋しさやら苦しみを越えて、御霊から与えられる、尊い尊いみ言葉の賜物。一人一人違っていいはずなんです。ワンパターンな信仰なんてありません。個性的な信仰こそが本当なんです。本物なんです。個性的な信仰だからこそ、一緒になることができるんですよ。一同が一つになることができるんです。どこかの教団のようにワンパターンな信仰を押し付けて、これを承認するかしないかと言っているような、教師試験で訴えて来るような権力や教会ではなくて、ワンパターンのドグマの承認ではなくて、一人一人が生きてきた人生の歩みの中で、他ならぬ御霊の賜物を受けて、私の信仰を与えられたわけです。私の信仰こそ大事にしてもらいたい。個性的な信仰こそが力になるわけです。それをワンパターン化して、枠の中にはめようはめようとする、そういう権力を行使する教会・教団というものは本当の教会かと問わなければならない。本当の一致とは何か、個性的な信仰の集まりなんです。ワンパターンのドグマに承認を与えるというものではありません。聖霊降臨というのは、そのようにして一人一人の個性的な信仰を与えて下さる時でございました。

ですからイエス様が天に帰られて、今まで弟子たちはイエス様におんぶにだっこでしたね、何でも、イエス様、イエス様。しかし、イエス様はいなくなった。天に帰られた。あとどうするか。聖霊によって生きるということは自立するということなんです。霊によって生きるということは自立ということなんです。自由に生きるということなんです。こんなに素晴らしいことはない。聖霊を受けることによって、私たちは本当に自由にされる。もちろんイエス様に対する信仰は変わりませんけれど、霊によってイエス様との交わりはますます深く、個性的な人生を生きていくわけです。そこに力が湧くわけです。そのようにして一人一人の上に聖霊が留まったという個性的な信仰を促すと共に、そこに本当の一致がある。生きた一致が与えられるということなんです。それでもって、霊を受けた一人一人が全く違った言葉を語り始めたということなんです。自分の故郷の慕わしい懐かしい、心から受け入れられるような言葉を語り始めた。振り返りますと、昔バベルの塔というおぞましい人間の営みがありました。神を恐れず、レンガを積んで天にまで届かせよう、神の座を乗り越えよう、という傲慢な人間の営みが潰され、一挙に人間はバラバラになって、言葉が通わなくなった。あの事件を振り返りますと、ペンテコステはバラバラになってしまった人間の言葉が、お互い通じなくなった人間の言葉が、誰の言葉を聞いても納得できる懐かしい言葉になったということ、通じる言葉になったということです。これは聖書学者の説明によりますと、「世界宣教、全世界に向かって宣教していくという使命の予告である」と言われております。あらゆる世界に向かって、異なった言語、しかし、どの民族にあっても慕わしい懐かしい、受け入れやすい言葉が語られていく。世界宣教のヴィジョンです。そういう中で、弟子たちは新しい言葉を使い始めた。これは、三位一体論を信じるかどうかとか、教憲教規を信じるかどうかとか、そういう言葉ではなくて、その人でなければ言えないような信仰の告白、その人だけが言えるような尊い証の言葉、それこそが、御霊に導かれた個性的な言葉であり、それこそが、仲間をひきつけていく言葉になるわけであります。そのようにして結論的には、いろいろな人々が集まってきたけれど、彼らが私たちの言葉で、神の偉大な業を語っているのを聴こうとはと、驚いているわけです。教会というものは、繰り返し申しますけれど、個性的な信仰者の集まりであります。一人一人が、自分の人生の旅路の中で、いろんな苦しみを通して、痛みを通して、そこから出てきたところの言葉、み霊に導かれて生まれた言葉、それが実に普遍的な響きを持つのです。マルコの福音書の13章に、世の終わりの予言の中で、迫害の真っただ中、皇帝の権力、宗教上の権力によって圧迫されることはあるが、「何を語ろうかと心配するな。示されることを彼らに語るのは聖霊だからだ。」というマルコの言葉があります(13:11)。語るのは聖霊の言葉。そういう風に、苦難を通して、不条理を通して、主イエスの恵みに与りながら、そこにみ霊から示された独自の言葉、それこそ状況に即した、歴史にかみ合う生ける言葉が生まれてくるわけです。あらかじめ何を語ろうかと心配するな、その時その時に与えられる言葉で語ればいいんだ。それは自由であります。自由な言葉、そしてそれが全世界のいろんな所に通ずる言葉、言語そのものは違っていても、キリスト教の歴史を振り返ってみます時に、本当に日本のキリスト教会の始めを振り返ってみても、聖書の知識とか、キリスト教の教理とかの説明によって、納得してキリスト教に入ったことなどほとんどありません。

なぜ明治初期に、かつての武士階級の人たちがどんどんとキリスト教に改宗していったのか。何があったかというと、波濤を越えて、太平洋を越えて、インド洋を越えて、世界中から集まってきた宣教者たちが、我が身を顧みることなく、日本社会で差別をされている女子たち子どもたちに対する我を忘れての愛の行為、一生懸命差別に苦しむ者たちのために手を差し伸べ、何としても女性には知識と力を与えようということで、ミッションスクールが始まっていったわけであります。ほとんどのかつての武士階級のキリスト教に入信の経過は、我が身を忘れて愛の業に励んでいる宣教者の姿を見て、「この人の信ずるものは本物だ。私もそれを信じたい。」というので入ってきているわけです。

ですけど、教団には最近、ドグマというか教憲教規ということを振りかざして、本当にみずみずしい言葉がなくなっている、その現実を思います。どうしたらよいのか。そこに歴史を振り返って、我が身を忘れてイエス様に仕えている宣教者の姿、その姿の中に本物を見出す時に、心開かれて、イエス様の福音を受け入れることになるわけです。伝道というのは何か組織を動かすものではなくて、一人が一人と、福音に生かされている現実を、身体をさらして示していく。一対一の中で伝道は行われるわけであって、そこに一緒に主イエスの恵みに与ろうという運動が広がるわけであります。くれぐれも形式ばったドグマに囲まれた、何かこう正統なこの教義を信じよう、承認しようという行為ではなくて、生々しい、みずみずしい、生活の中から生まれてくる新鮮な言葉に対する告白、応答、これこそ本物であり、人を引き付けるものなんです。そのように、教会は聖霊を受けることによって、新しい、みずみずしい本当の言葉を生み出す共同体であります。

船越教会は、小さな教会です。けれども船越教会に課せられている使命はとっても大きい。2千何百人もいる日本基督教団の教職の中で、たった一人無理無体な形でもって排除されている牧師がいる。その一人の牧師を支え続けていくということ、それが教団に対する問題提起になり、この船越教会の礼拝と共に、北村先生を支えていくという、この歴史、この事実、それが教団にとって物をいうのです。どこに本物があるか、はっきりとわかるような言葉を発することが船越教会の課題なんです。

そのようにして選ばれた少数者が、神の選びのもとで驚くべき力を発揮するのです。少数であるからと言って、自ら落ち込んでしまうようなことはあってはなりません。イスラエルという少数者が、どんなにか神様から愛されて歴史を歩んできたか。

公害問題の日本の歴史においても、田中正造という人を中心に、日本国家にとってマイノリティの足尾銅山周辺の百姓たちが結束して公害問題に対して抵抗した。今日本の歴史の中で、公害問題といったらまず田中正造でしょう。そういう評価が、歴史のかなたに生まれてくるわけです。私たちもお互いにだんだんと年を取ってきてますから、生きている間に目に見える結果を見出すことはできないかもしれません。生きている間に、ああよかったということにならないかもしれない。だけど、大事なことは、神様の救いの恵みに与って、本物を生きようとしたプロセスを生きた、結果は神様から与えられるもので恵みであり、栄光であり、感謝なんです。先々どうなるかわかりませんよ。命ある限りプロセスを生き続けるということ。抵抗し続けるということ。本当の言葉を求めて生きるということ。そのプロセスの中に人生は終わってよいのではないか、終わってよろしいんですよ。華やかな、「やった、やった万歳」という結果が来ないかもしれない。私なんか、もうほんといつ終わりが来るかわかりません。それでも、プロセスを生き抜いたことは本当に感謝です。その事実が残っていく。その事実が物を言うのでしょう。

船越教会に負わされた責任を、本当にしっかり皆さんに担っていただけるように、自分自身の固有の個性的な言葉で信仰を告白して参りましょう。

少し話は飛びますけれど、私の話を聞いて、ある人が「寅さんはいつ出てくるのかな」というので、寅さんの話にふれますけれど、フーテンの寅さんがある時、ある島の丘の上でお昼を食べている。あんパンと牛乳で。その後ろを美しい女性が丘の上を登って行くわけ。そういう女性に寅さんは弱いわけですから、あとをつけていく。お墓参りをしています。寅さんが近づいて、「旦那様が亡くなられてご愁傷さまです。」と頭を下げるんです。そうすると、女の人は松坂慶子さんで、「お祖父ちゃんお祖母ちゃんのお墓参りに来たのです。」と。「はいそうですか。」ということで、話が始まって丘を下りていく。船に乗る直前、「兄さん、これからどうするの。」って言うんです。松坂さんは芸者の役やってるんですね。すると、「風の吹くまま、気の向くままよ。」と寅さんが答えるんですね。松坂慶子さんが、海の中を小魚が群れをなして泳いでいるのを見ながら「お兄さんはいいですね。お魚みたいに自由で。」このシーン気に入っているんですね。(注「男はつらいよ 浪花の恋の寅次郎」)

「風の吹くまま、気のむくまま」で思い起こしたのが、ヨハネ福音書の3章なんです。

「肉から生まれたものは肉である。霊から生まれたものは霊である。『あなたがたは新たに生まれねばならない』とあなたに言ったことに、驚いてはならない。風は思いのままに吹く。あなたはその音を聞いても、それがどこから来て、どこへ行くかを知らない。霊から生まれた者も皆そのとおりである。」(6-8節)。霊から生まれた者、聖霊に与った者は「風の吹くまま、気の向くまま」。寅さんの言葉が、まさにイエス様のみ言葉に見事に重なるわけ。この自由さ、何物にも代え難い、み霊によって生きる自立と自由と、同時にそれが必然的に促すところの隣人愛、共に生きるということにつながっています。

今日の聖霊降臨日の礼拝の中で、どうか船越教会の尊いご使命に、改めて思いいたしていただいて、日本基督教団の中にあって、船越教会の皆様の、み霊によって生きるこれからの道を、心からの祝福をもってお祈りいたしたいと思います。

(6月5日(ペンテコステ)船越教会礼拝説教)