なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

使徒言行録による説教(42)

 昨日は、朝早くから夜遅くまで出ていましたので、ブログの掲載ができませんでした。

       使徒言行録による説教(42)使徒言行録11:19-30、

・リチャード・ボウカムという神学者が、自分の個人史にについて語っていますが、その中でこのようなことを述べています。「キリスト教信仰のなににいちばん惹かれるかといえば、それが人生に意味と目的を与えてくれることでした。宗教的な信仰なしでは、人生には深い意味がなくてただ浅いところでしか生きられないという感覚がずっとありました」(福音と世界、2013年9月号、44頁)。このことは、最初期の教会においても、多くの人が共有していた思いではないでしょうか。

キリスト教信仰は、イエスの出来事に出会った人間の側からの応答です。ガリラヤ湖畔でイエスに出会ったペテロやアンデレ、ゼベダイの子ヤコブヨハネの漁師たちも、イエスから、「わたしに従ってきなさい。人間をとる漁師にしよう」(マルコ1:17)という声をかけられ、イエスに従ってイエスの弟子になったと言われています。浅いか深いかはともかく、弟子たちは漁師としての生活を捨てて、イエスの弟子として生きていく道を選びました。それは、この四人にとっては、イエスによって自分たちの人生に(本当の)意味と目的が与えられたということになると思います。

・四人は、イエスに出会って、イエスからの招きを受けなかったなら、自分の父親と同じように、漁師という自分の生業を、体の続く限りして、一人の生活者として一生を終えていったに違いありません。

使徒言行録によりますと、ペトロはイエスの弟子として生きて来たために、ヘロデ・アグリッパによって牢獄に入れられたと言われます。次回に扱います使徒言行録12章の4節に「ヘロデはペテロを捕らえて牢に入れ、四人一組の兵士四組に引き渡して監視させた」と記されています。おそらくペテロがイエスの弟子にならなければ、こんな苦労を背負わなくて済んだと思われます。けれでも、ペテロはイエスの弟子としての道を選びました。イエスに従ってイエスの弟子として生きていくことに、自分の人生を賭けるに値する意味と目的があると、ペテロは考えたからに違いありません。

・ペテロだけではなく、おそらく最初期の教会に集まって信仰を告白してキリスト者(クリスチャン)になった者たちすべてに、何らかの形で、イエスを信じて、イエスに従って生きるようになったとき、彼ら・彼女らには、自分の人生の意味と目的が明らかになったという経験を共有していたと思われます。

・その経験は、一人一人において、どのようにして起こったのでしょうか。今日の使徒言行録の個所の中に、こういう言葉があります。21節ですが、「主がこの人々を助けられたので、信じて主に立ち帰った者の数が多かった」。これは、アンティオキアという、当時ローマ、アレキサンドリアに次ぐ第三のマンモス都市で起こった出来事です。このアンティオキアに新しく誕生した教会のことが記されているのです。

・「ステファノの事件をきっかけにして起こった迫害のために散らされた人々は、フェニキアキプロス、アンティオキアまで行った」(19節)と言われています。アンティオキアにイエスの福音が告げるようになったのは、ステファノの迫害がきっかけであったというのです。もしステファノの迫害がなく、ギリシャ語を話すユダヤ人の信徒も平安のうちに、エルサレムで、へブル語を話すユダヤ人信徒と共にいることができたら、エルサレムに教会が誕生してから、こんなにも早くアンティオキアにイエスの福音が宣べ伝えられることはなかったに違いありません。エルサレムにいられなくなったギリシャ語を話すユダヤ人信徒たちが散らされて行きましたが、彼ら・彼女らは、イエスの福音を告げられて得た信仰者としての生活を捨てることはありませんでした。おそらく、彼ら・彼女らにとりまして、このイエスの福音との出会いは、それぞれの人生にかけがえのない意味と目的を与える出来事だったからです。

・アンティオキアに行った彼ら・彼女らは、最初自分たちと同じギリシャ語を話すユダヤ人以外には「御言葉(福音)」を語らなかったようです(19節)。ところが、「彼らの中にキプロス島やキレネから来た者がいて、アンティオキアへ行き、ギリシャ語を話す人々(非ユダヤ人「異邦人」)にも語りかけ、主イエスについて福音を告げ知らせた」(20節)というのです。

・こうして、それまでに、ピリポがエチオピアの宦官に福音を伝え、ペテロがローマの兵隊コルネリウスに福音を伝えて、非ユダヤ人(「異邦人」)にもイエスの福音が宣べ伝えられていましたが、アンティオキアにおいて、非ユダヤ人(「異邦人」)がメンバーの中心となるような教会が、はじめて設立されることになります。「主がこの人々を助けられたので、信じて主に立ち帰った者の数が多かった」というのは、このアンティオキアでのことを語っているのです。

・このようにして、最初期の教会は、人と人との出会いによって、新しい回心者が与えられ、そこに教会が誕生するという形で、キリスト教の伝道が進展していったと思われます。教会の組織や制度的なものは、信仰者の集まりが生まれて、その後から出来たものです。リチャード・ボウカムは、ヨハネ福音書で用いられている友情のイメージ(互いに愛し合う)に基づいて、「キリスト教会を、制度や権威主義的体制としてではなく、イエスの友であり、そのゆえにお互い友であるような集まりとして考える」ことを提唱しています。実際最初期の教会は、そのような人の集まりであったのではないでしょうか。イエスを中心にして、その交わりの中でそれぞれが自由に生きられる、関係性における自由、教会の交わりに所属しながらの自由(リチャード・ボウカム)を得て、一人一人が人生の意味と目的を見出して生きて行く場所が、教会だったのではないでしょうか。

・それを信仰的な言い方で表現すれば、「教会には聖霊が満ち溢れている」ということだと思います。ある方は、「教会の伝道的成果は、いつも教会の霊的生命のいかんにかかっている」(村瀬俊夫、説教者のための聖書講解『使徒行伝』180頁)と言っていますが、この教会の霊的生命とは、「関係性における自由」と言ってもよいのではないでしょうか。そのような自由を、礼拝と交わりから豊かに与えられる教会に、この船越教会をしていくことができるように祈り、努めたいと思います。

・さて、このようにして設立したアンティオキアの教会のことが、エルサレム教会にも伝わって、エルサレム教会はバルナバをアンティオキア教会に派遣したと記されています。 <バルナバは、「キプロス島生まれのレビ人」(4:36)でしたので、「キプロス島やキレネから来た者」が始めた運動(「異邦人」伝道)を理解し、それを正しく指導するのにぴったりの人物でした。また、その名が意味するとおり「慰めの子」であったので、彼は上から命令するよりも、仲間の一人として慰め、励ます人でありました>(村瀬俊夫、同上117頁)。

・「彼は到着して神の恵みを見て、喜び、すべての者に、心の意図において主に向かってとどまるように、と呼びかけた。バルナバは善い人で、聖霊と信仰に満ちていたからである。そしてかなりな人数の群が主に対して増し加わった」(23,24節、田川訳)。と記されています。さらに、バルナバは、サウロ(パウロ)を探しにタルソスへ行き、見つけ出してアンティオキアに連れ帰りました。そして、二人は、丸一年の間アンティオキア教会に一緒に留まって、多くの人を教えたというのです(25,26節)。また、「弟子たちがクリスチャンと称するのもアンティオキアで最初に生じたことである」(26節)とも言われています(「クリスチャン」はアンティオキア教会の信徒の自称。田川)。その結果、アンティオキアの教会は、恐らく非ユダヤ人「異邦人」信徒が中心の教会として成長していったと思われます。

・その頃、新しくできたアンティオキア教会には、巡回伝道者や預言者のような人がやってきては、彼らの教えを語っていったと思われます。その中に、アガボという預言者がいて、彼は霊感を受けて、大飢饉が世界中に起こる、と予告しました。すると、クラウディウス帝の時に、その大飢饉が起こりました。その時、(アンティオキア教会の)「弟子たちはそれぞれの力に応じて、ユダヤに住む兄弟たちに援助の品を送ることに決めた。そして、それを実行し、バルナバとサウロ(パウロ)に託して長老たちに届けた」(29,30節)と記されています。これは、アンティオキア教会で集めた援助品を、パウロバルナバに託してエルサレム教会に届けてもらったということです。

・この記事には、小さなことかも知れませんが、バルナバとサウロ(パウロ)は、エルサレム教会の「長老たち」に届けた、と記されています。エルサレム教会の「使徒たち」とは記されていません。ここには、エルサレム教会の指導者がペテロをはじめとしてイエスの弟子達=「使徒たち」から、イエスの弟を代表とする「長老たち」に代わっていたことが示されています。12章の1節には、ヘロデ・アグリッパによるエルサレム教会の迫害について記されており、そこで、ゼベダイの子ヨハネの兄弟ヤコブが剣で殺されたことが記されています。ヤコブの殉教です。当時エルサレムはローマと対抗する勢力が強くなって、国粋的、民族主義的な空気が強くなってきており、エルサレムの教会の姿勢が問われるようになっていたのではないかと思われます。イエスの弟ヤコブは「義人」の誉れ高く、ユダヤ教側の人たちにも評判の良い人だったと言われています。しかし、そのヤコブも後に殉教の死を遂げます。

エルサレム教会の信徒は、そのような厳しい状況に立たされていました。しかも、大飢饉に遭遇し、大変な困難に見舞われていたことでしょう。そのような時に、バルナバとサウロ(パウロ)がアンティオキア教会の援助品を持ってきてくれたのです。エルサレム教会の人たちはどんなに喜んだことでしょうか。

・先ほど、「キリスト教会を、制度や権威主義的体制としてではなく、イエスの友であり、そのゆえにお互い友であるような集まりであるとして考える」というリチャード・ボウカムの言葉を紹介しました。私たちは、最初期の教会の人々と同じように、イエスを信じ、イエスに従って生きる人として、他者との出会いの中にその福音の生命を共有するものでありたいと願います。宣教とか伝道が、そのような一番原初的で、大切な、イエスという方を中心とした関係性の中での自由を、共に生きる仲間の形成にあることを、常に覚えて、私たちなりに、福音宣教の働きに参与していきたいと願います。