なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

黙想と祈りの夕べ通信(271)復刻版+α

 今日は9年前の「黙想と祈りの夕べ通信(271)」復刻版と、私の尊敬していた師への小さな追悼文

を掲載します。


        黙想と祈りの夕べ通信(271[-10]2004・12.5発行)復刻版


 私が最初に赴任しました東京の足立梅田教会で大変お世話になりました、F牧師のお連れ合いのMさん

が先月11月2日に80歳で召されました。ご家族と足立梅田教会の方たちだけで密葬を済ませ、後日お別れ

の会を開くことになりました。それはMさんの生前からの希望でした。そのことにはMさんの個人史が関

わっています。私も足立梅田教会に神学生として1年、牧師として5年いたときに(1968年4月から1974年3

月まで)、Mさんからお話を伺ったことがありました。すぐ上のお姉さんが美竹教会の信徒で、大変熱心

な方だったようです。病気をされて大学をやめて、健康が回復してから向島の施設の興望館で寮に住み込

み働くようになりました。興望館の子供たちを疎開させていた軽井沢で急逝され、美竹教会で浅野順一牧

師司式によって葬儀が行われました。Mさんはそのお姉さんの葬儀を契機にして信仰に導かれたのです。

そしてお姉さんの志を自分が引き継ぐ思いを強くもたれました。足立梅田教会は愛恵学園というキリスト

教施設で行われていた集会から受洗者が生まれ、その青年たちを中心にF先生が1953年から自宅を開放し

て行われた開拓伝道によって生まれた教会です。その最初からF先生は青山学院の聖書科の教師をしてお

られましたので、Mさんが熱心に教会の働きを担いました。それがMさんにとってはお姉さんの志を自分

なりに継ぐことだったようです。そういうお姉さんのことがあったものですから、Mさんは自分が召され

たら葬送式をして伝道の機会にしたいと生前から希望していたのです。Mさんの密葬が終わってから、長

女のCさんから私に葬送式の説教をしてもらえないかという相談を受けました。式次第の内容も考えても

らいたいということでした。現在の足立梅田教会の牧師も了解して下さっているということでしたので、

さっそく式次第を考え連絡しました。奇しくも私の誕生日になります12月4日にMさんの葬送式とお別れ

会が決まりました。青学会館のチャペルで葬送式が行われ、別室のホールでお別れ会がありました。150

名強の人が集まりました。お別れ会ではMさんの思い出として数名の方からお話がありました。それぞれ

心あたたまるお話で、今まで私も知らなかったこともお聞きできました。

 私は東京神学大学4年生のときに友人のK・T君(現在滋賀で牧師をしている)と二人で、私たち二人

が関わっていました本木隣保館の集会に来ていた廃品回収をしていた「バタヤ」さんの生活を体験しよう

と、本木隣保館に一番近かった足立梅田教会のF先生にお願いして夏期伝道実習をさせてもらいました。

夏の一ヶ月足立梅田教会の信徒の方の家の離れをお借りして私たち二人は寝泊りさせてもらい、朝早く起

きて当時大八車で東京都の清掃局の車が回収に来る前のごみ集積場所を回って、ダンボールや金属のもの

を集め、廃品回収の仕切り屋さんに持って行って買い取ってもらうのです。荒川区の町屋近辺をよく回り

ました。そのことがあって、青山学院の方針で教師と教会の担任の兼務ができなくなったとき、F先生は

私に足立梅田教会を託すつもりで、神学校でたての私を足立梅田教会の主任担任教師に迎えてくださいま

した。そして私のやることを背後から見守ってくださり、一切口を出しませんでした。70年前後の時代で

すから、戦責告白、万博・東神大問題への私の発言や教師検定受験拒否についても、必ずしも先生は賛成

ではなかったかもしれませんでしたが、よく聞いてくださいました。3人の私たちの子供たちもご夫妻で

可愛がってくださいました。またMさんはご自分とはタイプの違う私の妻を信頼してくださいました。今

F先生は89歳で肉体的には元気でホームの生活を続けていますが、人とのコミュニケイションがとれなく

なっています。私は自分自身の行詰まりもあって足立梅田教会を5年で辞し。F先生ご夫妻の期待にお応

えできませんでしたが、いつも祈りの中で足立梅田教会のことを覚えてきました。Mさんの葬送式を終え

て、今ほっとしているところです。       


 以下の文章は、F先生が帰天された後、F先生の追悼の文章として、私が書いたものです。4年ほどま

えのものです。


    「牧師の中でボクが一番尊敬するF先生」      紅葉坂教会牧師 北村慈郎


F先生との出会いは、ボクが東京神学大学3年生の時である。1965年になる。神学校の同級生の友人と二

人で、夏期伝道実習を足立梅田教会にお願いしに先生のところに伺ったのがはじめてである。ボクたちは

その頃本木町にあった本木隣保館で、週一回東京神学大学の寮から通ってきて、廃品回収をしながら仕切

り屋さんの長屋でかろうじて生きのびていた方々(当時「バタヤさん」と言われていた)の集会をしてい

た。夏休みを利用してその方々の仕事を一緒にさせてもらおうと思い、夏期伝道実習ということでF先生

にお願いしたのである。F先生はボクたちの話を聞いて、快く引き受けてくださった。そしてその夏足立

梅田教会信徒のSさんの家の一室をお借りして、そこに二人で泊り込み、朝早く仕切り屋さんから借りた

大八車を引いて、西新井橋、尾竹橋を通って町屋近辺で、都の廃品回収車が回ってくる前のゴミ集配所か

ら金目になるものを集めてくる「バタヤさん」の仕事を手伝ったのである。それがきっかけとなって、そ

の後先生は青山学院の方で学校の教師と教会の牧師の兼任が出来なくなったということで、神学校を出た

らボクに足立梅田教会の牧師になってもらえないかという話をしてくださった。ボクはそれを受けること

を決断し、1968年4月から足立梅田教会の礼拝に出席するようになった。その頃ボクは既に結婚してお

り、東横線の大倉山に住んでいた。そこから1年間は妻と一緒に足立梅田教会の礼拝に通ったのである。1

969年4月から、居を関原のアパートに移し、足立梅田教会の主任担任教師として働くようになった。1974

年3月まで先生と一緒に仕事をさせていただいた。

 ボクは自分の人生の中で出会った牧師の中でF先生を一番尊敬している。他にも尊敬でき、またいろい

ろ教えられる先輩の牧師の方々はいるが、先生は一味違っているように思う。それは何かを誤解を恐れず

に言えば、先生はキリスト教や教会よりも目の前の人間を大切にされるということである。 ボクはこの

3月が終わると牧師になって40年になる。この40年間キリスト教や教会を絶対化して生身の人間を抑圧す

る過ちに陥る危険から比較的自由でいられたのは、ひとえにF先生との出会いによるところ大である。そ

の意味で、先生には本当に感謝している。

 死後の世界があって、また先生とお会いすることができたら、人間について、聖書や教会についてゆっ

くり語り合いたいと思っている。