なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

黙想と祈りの夕べ通信(270)復刻版

 今日も、やはり9年前の「黙想と祈りの夕べ通信(270)」復刻版を掲載します。

 この時の通信は、当時の伝道師ががまとめてくれたものです。最後の部分は、私が書きました。確かこ

の年は、夏休み分の休暇を、半分は夏に、半分は秋にとったのですが、この時の「黙想と祈りの夕べ」が

ちょうど秋にとった私の夏休み中で、私が欠席したときだったと思います。 一人で山形の蔵王温泉に3

泊してきた時です。


         黙想と祈りの夕べ通信(270[-9]2004・11.28発行)復刻版


 今月8日~9日にかけて香港で開かれたアジア・キリスト教協議会(CCA)の会議でアン.ジェオン総幹

事が、総幹事報告の中で、アジアの伝統的文化が西洋の影響で消滅の危機に瀕している今、アジアの霊性

を教会が生き返らせなければならないと、強調しています。例えばお隣韓国ではキリスト教人口が全体

の3割強までに伸び、特に都市部ソウル、釜山では4割を越す比率となっていますが、そのことにより、

伝統的な文化、伝統が急速に失われつつあると言います。確かにこのことは一概に否とされることとは言

えず、伝統的な家父長制も若年層では既に過去の遺物となり始めているということで、評価の分かれると

ころでしょう。アン氏によるとアジアの教会の多くが、財政や資産の管理、そして管理ミスを犯さないよ

うに運営する、それだけに関心を払うようになっている、教会が建物、インフラストラクチュア、教勢と

いう数字ゲームにエネルギーを使い、一人一人の魂の叫びに時間を費やさなくなっていると指摘していま

す。日本基督教団も例外ではありませんが、これは世界のキリスト教会の大きな流れとなっています。そ

の理由として、教会の財政規模の縮小、礼拝出席の低下が過度に進んでいる今日の、教会の「悲鳴」の裏

返しという側面があります。そういう問題も認識しつつ、教会が祈りを持ってこの私たちが生きる世界の

平和を求めるものでなくてならない、と報告を読んで感じさせられました。

(以上はM伝道師の発言でした)。

 続いた一人の方より以下のような発言がありました。辺野古に関わり、また教団総会に出席するなどの

中で、一つの問題を取っても、どうしてこのように二つの対立が生じてしまうのかと思う。相対的な発想

はどこにいってしまったのか。辺野古の問題にしてみても、国側からすれば、なぜこんなに抵抗する人間

がいるのかと、不思議に思っているかもしれない。また3日間、傍聴した教団総会も、福音主義教会連合

の機関紙の報告を読むと、どうしてここまで一つ一つの事柄を正反対から捉えられるのかと思わされる。

人が自らの立場に固執したときに、その人は相手のことや、他者のことが見えなくなることがある。

「私」が「絶対」になったときの恐ろしさを思う。「自分は正しいのか」ということを常に意識した生活

を送りたい。全く反対な立場にある人からも聞ける人となりたい。教会も相手から聞き、お互い学び合う

場とならないかと思う。

 以上はM伝道師によってよってまとめてもらいました。私はこの水曜日は夏休みの振り替えで休暇中で

したので、横浜から一人で山形に来ていました。ちょうど季節の狭間で閑散とした蔵王の温泉宿に水曜日

から3泊して、土曜日の午後に帰って来ました。一日のんびりと温泉に入りながら、橋爪大三郎の『現代

思想はいま何を考えればよいのか』を一冊読み上げ、聖書のパウロ書簡を通して読んでみました。後は蔵

王の温泉街をぶらついたり、近くにある沼の周囲を散策したり、一度はロープウエイに乗って山頂まで行

ってみました。観光客に出会うことがあっても数名で、スキーシーズンには賑わうのでしょうが、街はほ

とんど活動を停止したような感じです。お店もしまっているところも多く、開いているところにもほとん

ど人はいませんでした。周囲の山並みは紅葉も終わり、雪もまだです。何も見るものはないのですが、そ

れだけに落ち着いていろいろと思い巡らし、自分の想念を深めるのには最適な環境でした。