なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

ローマの信徒への手紙による説教(60)

8月28(日)聖霊降臨節第13主日礼拝(10:30開始)

 

(注)讃美歌奏楽はインターネットでHさんが検索してくれました。

 

⓵ みなさん、おはようございます。今から礼拝を始めます。しばらく黙祷しま

しょう(各自黙祷)。

② 招きの言葉 「希望はわたしたちを欺くことがありません。わたしたちに与えられている聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているからです」(ローマ5:5)

③ 讃美歌  18(心を高くあげよ!)

http://www.its.rgr.jp/data/sanbika21/Lyric/21-018.htm

④ 主の祈り  (讃美歌93-5A)を祈りましょう(各自祈る)。

⑤ 交 読 文  詩編8編2-10節(讃美歌交読文10頁)

          (当該箇所を黙読する) 

⑥ 聖  書  ローマの信徒への手紙14章7-12節(新約294頁)

     (当該箇所を黙読する)

⑦ 祈  祷(省略するか、自分で祈る)

⑧ 讃 美 歌    479(喜びは主のうちに)

http://www.its.rgr.jp/data/sanbika21/Lyric/21-479.htm

⑨ 説  教   「わたしたちは主のもの」          北村慈郎牧師

  祈  祷

 

安部晋三元首相の国葬が問題になっています。また、山上容疑者が私製の銃で安部元首相を殺害した事件が起こって、国会議員と元統一協会との関係が次々に明らかにされています。安部元首相の国葬に反対するのは、一連の法案を通して憲法第9条を骨抜きにし、日本を戦争のできる国にしたことや、森友・加計、桜事件のように政治を私物化した、彼の首相時代の生き方に疑問を持つ人が多いからだと思われます。また、元統一協会との関係を問われている国会議員も、反社会的な宗教団体である元統一協会からの支援を受けていた彼ら・彼女らの生き方に疑問を持つ人が多いから、問題にされているのではないかと思うのです。

 

「人間はどのように生きていくのか」が問われているのではないかと思います。これは、安部元首相や元統一協会との関係が問題とされている国会議員だけの問題ではなく、私たち一人ひとりも、同じ問いを突き付けられているのではないでしょうか。おそらく私たち人間にとって、最後に息を引き取るまで、考え続けなければならない問いではないでしょうか。人間は、どのように生きていくのでしょうか。

 

一生懸命働いて、それなりに社会的にも評価されている人であっても、退職後の生活の中で、自分は一体何をしてきたのだろうかと思い、空しく感じる人も多いと思います。なぜ、空しく感じられるのでしょうか。私たちは、一生他の人と一緒に暮らさなければなりません。そのために他の人の気に入る生活をしなければ、自分の生活を守ることも難しいのです。しかし、他の人のために、自分を献げるというのではなく、他の人のご機嫌をとって生きることは、自主的でないので空しいことでありましょう。会社勤めで、上司に気に入られて出世した人のように、そういう生活が、結局は自分の利益のためであるということは、事柄を一層空しくさせるのではないでしょうか。

 

パウロは、ローマの信徒への手紙(以下ローマ書)14章7節で、<我々のうち誰も自分自身に対して生きているわけではない。また誰も自分自身に対して死ぬわけでもない>(田川訳、新共同訳は<わたしたちの中には、だれ一人自分のために生きる人はなく、だれ一人自分のために死ぬ人もいません>)と語っています。

 

ここには、私たちは誰一人、「自分に対して」「自分のために」生きるのでも、死ぬのでもない、と言われているのであります。ここだけを読むと、それでは人間は誰に対して、誰のために生きるのかという疑問が湧いてきます。この言葉には、8節で続けてこのように言われているのです。<何故なら、もしも我々が生きているのであれば、主に対して生きているので、死ぬならば、主に対して死ぬのである。生きようと死のうと、我々は主のものである>(田川訳、新共同訳では<わたしたちは、生きるとすれば主のために生き、死ぬとすれば主のために死ぬのです。従って、生きるにしても、死ぬにしても、わたしたちは主のものです>)。

 

これは信仰を持っている私たちキリスト者の自己認識で、一般の人の自己認識ではありません。信仰を持っている私たちも、信仰を持たない人と同じように、「自分に対して」「自分のために」生きる空しさを知っています。ただ私たちは、それが空しいと思うだけではありません。「自分に対して」「自分のために」だけ生きることは、的外れな人間の生き方であるということを聖書から学んでいるからです。罪ということです。

 

創世記のアダムの堕罪物語(創世記3章)では、神が命じた、食べてはならない木の実を、アダムは神に逆らって食べて罪を犯します。自分を中心に、自分のために生きることによって、アダムは自分を創造された神のために生きる道を外して生きるようになってしまいます。神に創られた被造物である人間は、創り主の思いを受けて、創り主のために生きていくべきなのであります。<わたしたちの中には、だれ一人自分のために生きる人はなく、だれ一人自分のために死ぬ人もいません>(新共同訳)とは、「自分に対して」「自分のために」生きている状態にあった人間が、イエス・キリストの生涯と十字架と復活というイエスの出来事によって、神によってその状態から解放され、今は、「自分に対して」「自分のために」生き、死ぬのではなく、イエス・キリストのために生き、また死ぬ道を生きられるようになったというのです。

 

パウロはコリントの信徒への手紙二、5章14,15節で、「私たちはこう考えます」と言って、このように語っています。<すなわち、一人の方がすべての人のために死んでくださった以上、すべての人も死んだことになります。その一人の方はすべての人のために死んでくださった。その目的は、生きている人たちが、もはや自分自身のために生きるのではなく、自分たちのために死んで復活してくださった方のために生きることなのです>(新共同訳)。

 

自分のためにだけ生きていた者が、そうでなくなり、自分のために生きた時よりも、喜びと熱心とをもって、キリストのために生き、死ぬようになることは、そんなに簡単にできることではありません。私たち人間の方からすれば、今までの自分のために生きて来た生活に区切りをつけなければならないからです。区切りをつけるとは、今までの自分に死ぬことを意味します。それは並大抵なことではありません。悩み苦しみながら、葛藤を繰り返し、ついに悔い改めに導かれるのではないでしょうか。その時にも、イエスが苦難と十字架を忍び、その血を流されたのは、自分のためにだけ生きて来たこの私のためであったという信仰によるところ大ではないでしょうか。

 

このように、自分たちの生活は、自分のものであって、しかも、自分のものではない。自分の生活は主のものなのです。ですから、「生きるにしても、死ぬにしても、わたしたちは主のものです」と言われているのです。

 

私の連れ合いが2年半ほど前に帰天したときに感じたことですが、彼女は死の間際に、「もう充分、感謝」と言って、それからしばらくしてから息を引き取りました。その時、彼女は死に臨む時に、何か、自分の意志ではない、強い絶対的な意志である、神の召しを感じたのではないかと思いました。「その意志が、神の恵み深いご計画によると信じることができる者は、死において、主の動かない意志を悟ることでしょう」(竹森)と言われますが、彼女もそのように自分の死を神による召しと感じたのではないでしょうか。私にはそのように思えます。

 

「同じことは、生きることについても言えましょう。われわれの生涯は、自分のものでありながら、自分で勝手に動かすことのできないいくつもの事に支配されています。生まれもったからだ、性質、環境、などが、そのうちに数えられるでしょう。しかし、それがすべてではありません。そのほかの、自分で動かすことができると思う多くのことも、いつも、われわれの思うままになるとは限らないのです。ここにも、われわれは、自分の意志でない意志を感じます。しかも宿命、というものではなく、主の恵みを信じるならば、主の意志を感じるのではないでしょうか」(竹森)。

 

パウロにとっては、キリストによって生きることは、キリストが、一切において、主となって下さることでありました。そこから、あの有名なガラテヤ書の告白も出てくるのであります。<生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしたちのうちに生きているのです。わたしが今、肉において生きているのは、わたしを愛し、わたしのために身を献げられた神の子に対する信仰によるものです>」(2:20、新共同訳)。

 

キリスト者であれば、食べ物や日の禁忌から自由な「強い者」も、その禁忌を大切に生きて来た過去の生活の延長の中で、その習慣から自由になれないでいる「弱い者」も、このような信仰によって生かされているということにおいては同じなのです。

 

<では、あなたはいったい何故兄弟を裁くのか。あるいはまた、あなたは何故兄弟を蔑むのか>(10節、田川訳、新共同訳は<それなのに、なぜあなたは、自分の兄弟を裁くのですか。また、なぜ兄弟を侮るのですか>)。他者である兄弟の振る舞いにつてとやかく言うのではなく、自らが<神の裁きの座の前に立つことになる>ことをわきまえるべきではないかと、パウロは言っているのであります。

 

私たちは、自分を棚上げして他者の振る舞いにケチをつけたり、裁いたりしやすい者です。そのことによって、自分が優越感を持つことができるからなのでしょう。そしてそれが自分の支えにもなるからでしょう。

 

けれども、キリストのものとしてキリストの恵みに生かされている者は、他者と比べて優越感を持つ必要がありません。罪赦され、キリストのものとされたことを喜び、他者と共に生きてくからです。

 

「11節は、10節を引きついで、教会における一致の終末論的根拠を、旧約聖書を引用して示します。

 

11節の引用句の「すべてのひざ」「すべての舌」は、イザヤ書45章の原テキストでは「地の果てのすべての人々」(45:22)を指し、フィリピ書2:10-11においては宇宙的諸力として理解されているが、ローマ書のこの個所では、つづく12節からわかるようにすべての個々人に適用されている。すなわち、終わりの日に神の裁きの座の前に立って(10節)、「わたしたちは一人一人、自分のことについて神に申し述べることになる」(12節)と言われているのであるが、その申し述べる言葉とは、11節の「すべての舌が神をほめたたえる」から分かるように、終末論的罪責告白ではなく、キリストの前にひざまずく者の神賛美であり、フィリピ書2:11から類推される「イエス・キリストは主である」との告白、すなわちこの世界の主および審判者としての神の承認である(ケーゼマン)。それは同時に万物に、そしてわたしたちの一人一人に究極の救済をもたらして下さる主なる神(キリスト)への感謝の言葉であるに相違ない。6節で言われていた神への感謝はエクレシアにおけるその先取りとして、日常生活のさまざまな困難のなかで、わたしたち一人ひとりが恵みの主の支配下にあることを示す証しであった」(川島)。

 

エスは、「人を裁くな、自分が裁かれないためである」(マタイ7:1)と言われました。人を裁く自分の心を顧みて、そこにひそむ数えつくせない醜いものを見出し、ひそかに顔を赤らめない人はないのではないでしょうか(竹森)。

 

  • 祈ります。

 

  • 神さま、今日も会堂での礼拝を行うことができ、心から感謝いたします。
  • 神さま、ウクライナに一刻も早く平和をもたらして下さい。
  • 世界が競争の社会から相互扶助の社会になりますように。
  • 人を裁くことから、私たちたを自由にして下さい。
  • 今日から始まる新しい一週の間、私たちの仲間の一人一人をその場にあってお守りください。
  • 新しい一週の全ての人の歩みを支えて下さい。
  • この祈りをイエスさまのお名前を通してみ前に捧げます。  アーメン

 

⑩ 讃 美 歌    459(飼い主わが主よ)

http://www.its.rgr.jp/data/sanbika21/Lyric/21-459.htm

⑪ 献  金 (後日教会の礼拝が再開したら捧げる)

⑫ 頌  栄  28(各自歌う)                                                        

讃美歌21 28(み栄えあれや)

http://www.its.rgr.jp/data/sanbika21/Lyric/21-028.htm

⑬ 祝  祷

  主イエス・キリストの恵み、神の慈しみ、聖霊の交わりが、私たち一同の上に、また全ての人の上に豊かにありますように。     アーメン                      

⑭ 黙  祷(各自)

これで礼拝は終わります。