なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

黙想と祈りの夕べ通信(390)復刻版

 黙想と祈りの夕べ通信(390)復刻版を掲載します。2007年3月のものです。


      黙想と祈りの夕べ通信(390[-25]2007・3・18発行)復刻版


 今は受難節です。私はイエスの十字架について想い巡らすときに、自分の原点になっている出来事を同

時に思い出します。この黙想と祈りの夕べではまだお話していないと思いますが、私が神学校時代の5年

間と牧師になってからの最初の5年間の10年間関係を持ちましたあるセツルメントの集会で出会った、当

時廃品回収業によって生活していた方々のことです。その中の二人の方の葬儀を教会で行い、私が身元引

受人になり東京教区の墓地にその二人の遺骨を埋葬しました。当時そのような方が死ぬと、身元引受人不

明ということで福祉事務所の係りの人が葬儀屋を手配し火葬して、無縁仏として葬られていました。教会

で葬式を出せたということで、仲間の人たちは二人のことを、死に花を咲かせたと、うらやましがりまし

た。その二人の内の一人はおばあさんでした。目が不自由な方でした。そういう境遇にあった女性の方の

多くは、昭和初期の冷害によって東北などから身売りされた女性でした。そのおばあさんがそうだったか

どうかは分かりませんが、一人で廃品回収業の仕切り屋が提供する粗末な長屋の一室で生活していました

が、ある冬の日に心不全で急死しました。私が仕切り屋の主人に頼んでそのおばあさんの葬儀を教会でし

たわけです。このおばあさんの死を通して、私は自分とこの人の間にある隔ての壁である社会構造の問題

を改めて意識させられ、ただ仲良しの関係を越えて、このおばあさんと私を繋ぐものがあるのかを、根本

的に問われました。その時、十字架のイエスのことを想い起こさせられたのです。受難節ですので、自分

にとっての十字架という観点からお話させてもらいました。

 上記に私の発言に続いて、以下のような発言がありました。いつもの月曜国会前座り込みに行くと参議

院で憲法改正国民投票法案阻止の院内集会が社民党の主催で開かれるという。そこに座り込みの仲間数人

と参加した。この法案は9条改憲手続き法案である事を特に社会党憲法法案委員をしている辻元議員か

ら詳しく話を聞く事が出来た。その後色々な団体からのリレートークが有った。その中である議員が現憲

法は今年六十年の年として祝うべき年に改正しようとしていることの反対を語った。集会の最後の締めに

照屋寛徳議員が「皆さん、憲法は本当に六十年ですか・・?沖縄はまだ35年ですよ。そして今でも戦後で

は有りません戦中です。沖縄からイラクに闘いに出て行くし、沢山の基地では訓練が行われ、訓練で銃口

が市民に向けられています。ヘリコプターが落ちてくるなど命が脅かされ続けています。」と思い口調で

語られた。私は頭をガツンと叩かれた。教団総会の時も思わされたのですが、やはり、どれだけ沖縄に関

心を持っていても想像力の乏しさで小さな者の声を聞く事ができていないと思わされた。この夜国会前で

憲法改正反対キャンドルライト集会も開かれ600人以上が集った。キリスト者平和ネットの方と共に参

加した。院内集会でNCCの代表がキリスト教ではイースターを迎える時を過ごしている。皆さんは死ぬま

で闘うと言いますが、キリスト教は死んでも復活して闘いますとアピールしていました。キャンドルを持

ちながらそれを思い出し、イエスが時の権力から自由に振る舞い、十字架の苦しみを担なわれた事を思い

起こしつつ、受難週の時を心して過したいと思わされた。      

 続いて、もう一人の方の発言がありました。最近いじめや教育基本法憲法のことを話す友人から、君

は聖書がどう言っているかということでそのような現実の問題への対処のあり方を話すが、自分自身が経

験したことで判断する想像力が乏しいと、厳しい批評を受けた。自分としてはクリスチャンであるので、

聖書がどう言っているのかという問いは大切に思っている。彼の私に対する批判は、物事に対して聖書か

ら簡単に答えを出していることに対する批判なのかとも思う。自分としては周りからも批判を受けて、社

会の問題を見ていきたいと思っている。私の基本は今ここにキリストがいらしたら、何を語り、何をされ

るのかにある。エルサレム神殿でのイエスのパフォーマンスのことを思わされる。友人である彼とは意見

が違うが、考えさせられるところもあり、友人としてこれからも大切にしていきたいと思っている。



           「貧しさの内に一つとなる」   3月18日
  

 貧しさにはいろいろなかたちがあります。経済的な貧しさ、物質的な貧しさ、感情的な貧しさ、精神的

な貧しさ、霊的な貧しさ、私たちが、他の人の豊かさや健康、確実さ、知性、強さを重要視している限

り、本当のコミュニティーを築くことは出来ません。コミュニティーは、自分の持つ才能で世間の目を眩

ませるタレントショーの場ではありません。コミュニティーとは、私たちの貧しさが認められ、受け入れ

られる場です。それは、私たちが出来るだけうまく貧しさに対処することを学ばねばならない場ではな

く、貧しさが新しいいのちの真の源であることを知るようになる場です。

 家族や教会、様々なプログラムのグループ、同じ目的のもとに集まったコミュニティーなど、そのかた

ちがどうであれ、コミュニティー生活を送るということは、貧しさを共に分かち合うことです。そうする

ことで、私たちの豊かさも示されていくに違いないと信じることが出来るようになるでしょう。


                (ヘンリ・J・M・ナウエン『今日のパン、明日の糧』より)