なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

黙想と祈りの夕べ通信(391)復刻版

 黙想と祈りの夕べ通信(391)復刻版を掲載します。2007年3月のものです。


       黙想と祈りの夕べ通信(391[-26]2007・3・25発行)復刻版


 昨日F伝道所にI牧師をお訪ねし、当紅葉坂教会からの献金を渡してきました。F伝道所設立に当たって

紅葉坂教会が関係教会として関わりましたので、そのことを覚えて、毎年9月の第2日曜日にはF伝道所

献堂記念礼拝に紅葉坂教会の役員を派遣し、その際にも献金をお持ちしていますが、年度の終わりには私

が行くことにしています。年間10万円の献金を通常会計の「教会・神学校援助」から捧げています。私は

お訪ねする時は、いつもI牧師と2時間ほどの懇談の時も持つようにしています。今回もその時を持ちまし

たが、I牧師のお話の中に、障がい者がある程度の年金をもらえるようになってから、中には家族が抱え

込んで、家に閉じこもりがちになる事例が案外多くなっており、障がい者同士の連帯とその上に立った運

動がなかなか難しくなっている状況が出ているということでした。そのお話を聞きながら、私が名古屋時

代に脳性麻痺の方との交わりで、いろいろな集会に参加したことを思い出しました。その頃は障がい者

街に出るということで、障がい者の仲間が駅のエレベーターの設置の運動に取り組んでもいました。この

数十年の間に大分状況が変化していますので、I牧師が言われるような新しい問題が出ているのかもしれ

ません。それぞれが引きこもってしまうと、人と人とが繋がらず、それぞれが孤立していくことになりま

す。今日は神奈川教区の平和フェスタが神奈川教会でありましたが、平和フェスタでも社会的なさまざま

な問題に取り組んでいる委員会が集まって分かち合うことにより、勇気と希望が与えられました。繋がる

ことの大切さを思わされます。 

 上記の私の発言に続いて、一人の方の発言がありました。河合隼雄が父親不在の現代の子どもについて

書いているが、父親が会社中心の生活になり、家庭にあって子育ては母親任せになっているケースが多

い。会社はゲゼルシャフト(利益共同体)で家庭は運命共同体である。それが今は会社を盛り立てるため

にみんなで支えなければと、会社が運命共同体のようになっていて、逆に家庭の方は、夫も妻も働いてい

いて、家計もお互いに出し合い、経済的にうまくいっている時は繋がっているというように、家庭が利益

共同体になっているのではないか。では学校はどうか。大学で言えば、70年安保以前には大学の自治を学

生も教授も一体になって守るという面があったと思うが、最近借りて読んだ東大の安田講堂のことを書い

た本によれば、その頃から学校も利益共同体になってしまったように思われる。教会はどうか。「いかに

幸いなことでしょう。/あなたの家に住むことができるなら、/まして、あなたを賛美することができる

なら」(84:5)と今日の詩編にもあったように、運命共同体ではないか。クリスチャンとして運命共同体

しての教会を大事にしていかなければと思う。

 続いてもう一人の方の発言がありました。今日第4回神奈川教区平和フェスタがあった。第1回の時は

9・11の直後ということもあって、フェスタという祭りをすることに私は抵抗を感じた。昨年と今年2年続

けて実行委員としてフェスタに関わった。実行委員会はそれぞれの参加委員会から出てくるが、委員同士

の顔ぶれも分かり、信頼関係が出来てくる。天気も良く外での食事もゆっくり取れた。仲間と楽しく分か

ち合いこれが愛餐だね、そして聖餐かもねと話し合った。各委員会のステージもレベルアップしてきて内

容が豊富だった。最後に多民族共生委員会がブラジル出身の青年にヒップホップを歌ってもらった。礼拝

堂で歌われたヒップホップの歌詞は分からなかったが、彼が語る歌詞の内容解説は平和と愛のメッセージ

から、教会って一つに繋がっていると感じる時だった。日頃教区の中で社会的問題を担う人が少数と感じ

ることが多いが、数でなく中味だと感じた。フェスタの事をもっと教会の方々にもアピールすればよかっ

た。会場を貸してくださった神奈川教会も、会場を貸すだけと言っていたが終った時には大変よい会だっ

たと感謝された。神奈川教会にも何かを伝える事ができたのではないか。この会に参加して力を貰い来年

度に向けて、又活動できたらと思う。

 別の方の発言があった。日曜日の朝、礼拝に来る途中で、一緒に来た人から作業所の手伝いに来てくれ

ないかと声をかけられた。昨日その作業所に行ってみたら、他にも教会の人がいた。発送作業で、今日中

に終わらせたいというので、少し残業しなければならなかった。作業の間、音楽があると能率的だという

ので、ある人がいろんな軍歌をかけてくれた。兄の戦死のこともあり、軍歌を聴くと、兄を初め戦死者の

ことを考えさせられる。作業が終わって、自分を作業所に誘ってくれた人が、そのことをすっかり忘れ

て、私が何故そこにいるのか聞かれた。軽い誘いなのに、作業所のボランティアに行くことを決めた、自

分の心の動きがうれしかった。作業が終わった時、いい気持ちだねーという人もいた。感謝である。

 最後にもう一人の方からの発言がありました。今日は平和フェスタに参加して嬉しいことがあった。性

差別問題特別委員会の出し物で、Tさん扮する講師と色とりどりの衣装を着けた生徒とのやりとりを見な

がら「性」を理解していく企画があった。T講師の説明で、性も実は男と女の二つだけではなく、性的指

向も決まっているのではなく、一人一人すべて異なっている、一人一人が「それぞれの性」をもっている

ということが丁寧に説明された。以前何度か聞いたことのある話だったが、あらためて嬉しいと感じた。

会場全体の一人一人がみな別々の「性の色」を持ってそこにいると思ったら、ここに集まっている100人

ほどの人達が一緒にいるだけでも、なんて美しい光景なんだろうと感じたのだ。異なることが美しいと感

じる喜びであった。 


             「癒しの触れ合い」      3月25日
  

 触れること、そう、人に触れることは言葉にならない愛の言葉を語りかけます。赤ん坊の頃は沢山触れ

てもらいますが、大人になるとほとんど触れられることはがありません。でも友だちとの関係において

は、触れることは、しばしば言葉よりも多くのいのちを与えてくれます。背中をさすってくれる友人の

手、私たちの肩にかかった友人の腕、涙をぬぐい去ってくれる友人の指先、額にそっと口づけしてくれる

友人の唇、これらのものが本当のなぐさめをもたらしてくれます。こうした触れ合う瞬間は本当に尊い

のです。触れ合う瞬間は、回復をもたらし、人を和解させ、安心させます。触れ合う瞬間は人を許し、癒

します。

 イエスに触れた人はみな、そしてイエスに触れられた人はみな癒されました。神の愛と力とがイエス

ら出て行ったのです(ルカ六・十九)。友人が、無償の何も拘束しようとしない愛をもって私たちに触れ

る時、私たちに触れるのは、人となられた神の愛であり、私たちを癒すのは神の力です。 

                 (ヘンリ・J・M・ナウエン『今日のパン、明日の糧』より)