なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

黙想と祈りの夕べ通信(389)復刻版

 黙想と祈りの夕べ通信(389)復刻版を掲載します。2007年3月のものです。


       黙想と祈りの夕べ通信(389[-24]2007・3・11発行)復刻版


 生真面目さが唯一自分の性格における賜物のように思ってきましたが(もちろんこの自分の性格が重荷

をもたらすこともありますが・・・)、加齢とともにほころびが出始めたのでしょうか。最近広報のMさんか

ら頼まれていた原稿依頼を忘れていたことに気づき、〆切一週間前になってご本人に何とかお願いしまし

た。これはまだ思い出したので、救いようがありますが、もう一つの件は、全くの私の勘違いで、ご本人

に無理強いをしてしまいました。私は3月の祈祷会の司会奨励をお願いしたつもりでしたが、ご本人は4月

の祈祷会の司会奨励をお引き受けしたと思っておられたのです。直接電話で確認しておきながら、私は3

月と勝手に思い込んで週報に予告を載せました。それをご覧になったご本人から確認があり、私の勘違い

であることが分かりました。電話でご本人から4日(4月4日水曜日)ですねと言われていながら、私は最

初から3月と思い込んでいましたので、3月は7日が水曜日で4日は日曜日なのにと思いながら、改めて確認

せずに週報の予告に載せてしまったわけです。ご本人には謝りましたが、3月の祈祷会の司会奨励は引き

受けてくださり、助かりました。そういえば、最近家族の中では時々連れ合いとの間で、同じような勘違

いで言い合いをすることがあります。私は頑固ですから、連れ合いには余り譲らないのですが、気をつけ

なければと思いました。こういうある種の衰えは、自分の衰えを自覚することによって気をつける以外に

対処はないように思います。自分は衰えてはいないという自負が強いと、自分の現実を見誤り、周りの方

に迷惑をかけることになると思うからです。

 さて祈祷会で奨励してくださったNさんは、ご自分が昨年7月頃にヘルペスを患ってから、傷みの苦しみ

を体験され、未だに完全には治癒せずに温泉療法を続けているご自身の経験から、その病を通しての気づ

きについてお話してくださいました。日常を離れ温泉療法で行かれた伊豆の自然を通して、改めて神の存

在の豊かさとその確かさに出会った喜び、自分が病んで人の痛みが健康だった時よりもよく分かるように

なったこと、夫婦の関係が見直されてきたこと、友人知人の優しさが身にしみて感じられたことなど、体

験に裏付けられたNさんのお話は、聞く者の心の中にすっと入ってきました。

 私はNさんのお話を聞きながら、信仰者ならば誰でもがご自分の体験を通して神との出会いの経験をし

ているということを、改めて強く感じました。その一人一人の証言は信徒の説教そのものではないかと思

わされもしました。Nさんは何人かの人から、週報の予告を見て、祈祷会でお話しするのと、驚かれたそ

うですが、言語表現は苦手の人もいるでしょうが、神がその人のうちで働いていないような人は信仰者で

あれば誰もいないのではないでしょうか。

 Nさんのお話から、キリスト者にとって神は「存在の支え」であり、「自己相対化への力」であること

を改めて確信しました。病気の自分を否定せずに認める眼差しを持てるのは、病気の自分も神によって受

け容れられていると思えるからでしょう。また、病気の自分を自然との関係から、他者の痛みとの関係か

ら、夫婦の関係から、友人、知人との関係から見直す視点を持てるということは、病気の自分を絶対的に

思うのではなく、相対化しているからでしょう。神信仰が私たちの生に余白をもたらしてくれるというこ

とを思わされています。      


         「聴くこと、霊的なもてなし」   3月11日


 聴くことは非常に難しい。というのも、聴くためには、スピーチや議論、声明、宣言などによって自分

自身を証明してみせる必要などがないほど、内面が安定している必要があるからです。本当に聴くことの

出来る人は、自分が存在していることを周囲に知ってもらわねばならないというあせりがありません。本

当に聴くことの出来る人は、自由に人を迎え、歓迎し、受け入れることができます。

 聴くということは、相手に話させながら自分が反応するチャンスを待っていることではありません。聴

くことは、他の人々に深く注意を払い、自分の存在そのものに迎え入れることです。話を聴いてもらうこ

とにより、人は自身を受け入れられたものと感じ、自分の言葉をより真剣に受け止め、本当の自分を見つ

け始める、それが聴くことのすばらしさです。聴くことは、霊的なもてなしの一つのかたちです。聴くこ

とは、見知らぬ友が、友となり自分自身の心や内的な姿をさらに深く知るよう招きます。ひいては、その

人があなたと共に沈黙することさえも可能にさせるでしょう。

                  (ヘンリ・J・M・ナウエン『今日のパン、明日の糧』より)